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パソコンおもしろ講座6・インターネット伝説

無名の人たちが作った世界電子網

インターネットの父」と呼ばれる人が何人かいます。ラリー・ロバーツ、ヴィントン・サーフ、ティム・バーナーズ=リーといった人たちです。あなたはこの人たちの名前を知っていますか?
ふつう父親は一人だけのはずなので、インターネットの出生の複雑さが推測できます。
今回はこの人たちにまつわる「インターネット伝説」をお届けします。

1:SAGEとスプートニク・ショック

アメリカの防空システム
1950年代、アメリカはソ連の核攻撃に備えて防空システムSAGE(Semi Automatic Ground Environment=半自動式防空管制組織)を作りました。
SAGEはCRTを使ったリアルタイム・ユーザーインターフェイス、オンラインシステム、モデムを使ったデータ通信などを実現し、有線通信・遠隔管理に大きな進歩をもたらしました。 また多量の大型コンピュータを受注したIBMが巨大企業に成長するきっかけになりました。

スプートニク・ショックとポール・バラン
1957年、ソ連が世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功します。これは同時に大陸間弾道ミサイルの出現を意味し、爆撃機による攻撃を前提にしたSAGEが無効になったことを意味しました。衝撃を受けた米国は、 科学技術振興のためにペンタゴン内にARPA(高等研究計画庁)を設置しました。

1966年、ペンタゴンに「核戦争にも耐えられる通信網の研究」を委託されたRAND社のポール・バランが、インターネットの中核的技術のひとつとなる
-データを小さなファイルに分割して送り、受け手側で組み立てなおすデジタル通信方式-
に関する論文を発表しました。
そして、ほぼ同時期に同じ考えにたどりついたイギリスNPL(国立物理学研究所)のドナルド・デービスがこれにパケット通信という名前をつけました。
しかしこの研究はアナログ通信が中心の当時の環境の中では実現できず、棚上げにされました。 ページのトップへ

2:MIT人脈とアルパ

MIT人脈図
MIT(マサチューセッツ工科大)を軍学共同の有力大学にしたのはヴァネヴァー・ブッシュです。ブッシュは、MIT副学長からNDRC(全米防衛研究委員会)委員長に転進し、マンハッタン計画で原爆の開発を指導しました。 (この経歴は被爆国の国民としては気になります)
一方MEMEX(メメックス)という機械のアイ デアを発表しています。これはアナログ・コンピュータによるインターネット計画のようなもので、その後のコンピュータ・通信の研究に大きな影響を与えました。

ARPA(アルパ:Advanced Research Projects Agency=高等研究計画庁)
の中に設けられた
IPTO(イプト:Information Processing Techniques Office=指揮・統制事務部局)
の部長には代々MITの人材が着任し、膨大な資金を関係者に配布するようになりました。初代部長として就任したJ・C・R・リックライダーはタイム・シェアリング研究やCG研究に出資、当時SRI(スタンフォード研究所)にいたダグラス・エンゲルバートNLSプロジェクトにも出資しました。エンゲルバートはマウスやキーボードを発明し、ウィンドウシステムなどのGUI(画像を使ったコンピュータ使用システム)を作り上げました。
こうした支援の結果、多くのタイムシェアリング・システムがあちこちに出来上がり、その周囲にはこれを取り巻くコミュニティができました。(MITのMAC計画、UCバークレー校のGENIE計画など)
 注・タイムシェアリングとは、一台の大型コンピュータを複数のユーザーが同時に使用するシステムのこと

「これらのコミュニティ同士を何とかして接続できないだろうか」
1966年2月IPTO三代目部長のボブ・テイラーはこのように考えて企画提案し、100万ドルの予算がつきました。
テイラーはその幅広い人脈から、条件にぴったりのMITリンカーン研究所研究員、ローレンス・G・ロバーツ(ラリー・ロバーツ)を見つけました。ロバーツは軍人嫌いで「ペンタゴンの役人なんかいやだ」と言ったのですが、予算で脅された上司の命令で無理やりIPTO四代目部長にさせられました。

ラリー・ロバーツの通信実験
1966年当時、ラリー・ロバーツは、MITリンカーン研究所で空軍の電話システムを設計し、リンカーン研究所のコンピュータとサンタモニカにあるコンピュータを電話回線を使ってつなぐ実験をしていました。当時の貧弱な電話回線のため、実験は一部が成功しただけでした。 ページのトップへ

3:アーパネット計画

アーパネット計画関係図
ロバーツは友人であり、通信の専門家でパケット通信を実用化したレン・クレインロック(クリントン・ゴア政権の「情報スーパーハイウェイ構想」の企画者)や先輩のウェスレイ・クラーク等を呼び集めてチームを組みました。
こうして発足した「アーパネット計画」でしたが、たちまち壁にぶつかりました。ハードウェアもOSも全く異なる大型コンピュータ同士をどうやってつなぐのかという技術的な難問に、誰も答えを出せなかったからです。

ウェスレイ・クラークのアイデア図面
結論の出ない会議のあと、ウェスレイ・クラークが左図のようなメモをロバーツに渡しました。そこには、小型コンピュータを使ってホストを接続するシステムが書いてありました。
クラークはLINCという小型コンピュータの開発に従事していたのでこのアイデアが出せたのです。LINCは家ほどもある大型コンピュータを冷蔵庫くらいにし、後のミニコン・パソコンの元祖になりました。
クラークのアイデアをもとに、IMP(Interface Message Processor:ルータの先祖)の仕様が決められ、制作会社が公募されました。これを受注したのは当時無名の音響工学会社BBN社でした。
BBNにはARPAから移動したリックライダーがいて、MITなどから優秀な学生たちが集まっていました。その中にフランク・ハートヴィントン・G・サーフロバート・カーン等がいて、データ通信を実現するための通信プロトコル(コンピュータ同士がデータをやり取りするために必要な通信規約)としてTCP/IPを設計(機械式・のちにソフト化)し、これによってIMPが完成しました。

一方、カリフォルニアのPARC(ゼロックス・パロアルト研究所)にいたアラン・ケイはダグラス・エンゲルバートのNLSを引き継いでグラフィカル・ユーザー・インターフェイスのコンピュータ「ALTO(アルト)」を作り上げました。そして研究所内のALTOを接続してネットワーク化する「ローカル・ネットワーク」を作ろうと計画しました。研究員のロバート・メトカフ等によって作られたこのシステムは「イーサネット」と呼ばれました。こうして
パケット通信・TCP/IP・イーサネット
というインターネットの三つの基盤が出来上がりました。
このALTOは2000台しか作られず、ゼロックス社内だけで使われましたが、パロアルト研究所を見学に来たスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツがALTOを見て感銘を受け、マッキントッシュとWindowsの開発を決心したというのは有名なエピソードです。(ジョブズの自宅はPARCと同じシリコンバレーの中にありました)
また、早くから「ザナドゥ計画」でハイパーテキストなどの概念を提案したテッド・ネルソンも研究者たちに大きな影響を与えました。

第一次ARPAネット
1969年、西海岸のUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)、同サンタバーバラ校、ユタ大学、スタンフォード研究所の四箇所にIMPが設置されました。4台のIMPはパケット交換方式による通信実験に成功し、第一次ARPAネットが運用開始しました。

 

 

第2次ARPAネット
翌1970年、東海岸のMIT、ハーバード大学、BBN社(ボストン)とペンタゴン、ARPA等(ワシントン)を結ぶ回線が出来ました。

 

 

 

 

第3次ARPAネット
1970年代、ARPAネットは相互に連結し、全国的なネットワークに成長しました。しかしARPAネットはあくまで国防総省の所管であり、軍事研究をしていない大学、研究所、企業が利用することはできなかったのです。

 

 

そこで非軍事目的のCSネット(コンピュータ・サイエンス・リサーチ・ネットワーク)を作ろうという動きが起きました。1981年、全米科学財団がスポンサーとなって各大学やコンピュータ研究グループを結んでCSネットが運用を開始。1983年にはCSネットとARPAネットの相互接続が実現しました。

NSFネット
1986年、NSFネット(全米科学財団ネット)が誕生し、ネット利用が科学研究界全般に拡大しました。 この頃日本でも草の根BBS(パソコン通信)が広まります。
翌年には初の全国規模の商用ネットワークUUネットがサービスを開始しました。

1990年、ARPAネットが事実上廃止。そのバックボーンを受け継いだNSFネットは利用目的を学術・研究に限定していたので、商業目的のネットワークはこれを避け、TCP/IPでパケットを交換するネットワーク間通信を行うようになりました。そしてこれがどんどん拡大して「インターネット」と呼ばれるようになりました。
その結果、1995年にNSFネットも廃止に追い込まれます。こうしてインターネットの完全民営化が実現しました。ページのトップへ

4:ワールドワイド・ウェッブとモザイク

バーナーズ=リーとアンドリーセン
1991年、スイスCERN(セルン:欧州合同素粒子原子核研究機関)のティム・バーナーズ=リーがグラフィカルでダイナミックなホームページの閲覧手段であるWWW(World Wide Web)を発表しました。彼は同時にhtmlやURL、簡単なブラウザも開発しました。

1993年、イリノイ大学のNCSA(国立スーパーコンピュータ応用研究所)にいた大学院生マーク・アンドリーセンがインターネット拡大のきっかけとなったWebブラウザ、Mosaic(モザイク)を公開し、それが爆発的なヒットになってWWWブームを迎えます。
モザイクはバーナーズ=リーの簡単なブラウザを改良したもので、その後のほぼ全てのブラウザの原型になりました。マイクロソフトのインターネット・エクスプローラ(IE)の「バージョン情報」を開くと、「Based on NCSA Mosaic. 」という言葉が書いてあります。マイクロソフトはNCSAから一つの会社を通してモザイクを買い取ったのです。アンドリーセンはその後イリノイ大学を飛び出し、Netscape Navigatorを作って億万長者になりましたが、皮肉なことにモザイクをベースにしたIEとの競争には敗れてしまいました。

この頃日本でも旧郵政省がインターネットの商用利用を許可し、AT&T Jens社や、IIJ(インターネット・イニシアティブ・ジャパン)がサービスを開始。
1995年に発売されたWindows95にブラウザが標準装備されたことで日本でもインターネットが一般的になりました。それから十数年、光通信に乗せて動画・音楽・ライブ映像の配信やオンラインゲームなど、インターネットの発展はとどまるところを知りません。

上に上げた名前の他にもインターネットの成立に貢献した研究者・技術者はたくさんいます。そしてその人たちのほとんどが自分の研究を独占せずに無償で社会に提供しています。またその人々は一部を除いて日本ではたいてい無名です。この機会にぜひ代表的な人々の名前を覚えてください。

参考文献:脇英世著 『インターネットを創った人たち』(青土社)
       相田洋 企画・編集『新・電子立国-コンピュータ地球網-』 (日本放送出版協会) ほか
参考サイト:平野 浩 Electronic Journal「インターネットの歴史」
       http://electronic-journal.seesaa.net/category/618340-1.html など

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