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コンピュータ100年史

part3:ENIACと40年代コンピュータ

最初のコンピュータは?

ENIAC神話の崩れた日(工業調査会)

アメリカでも日本でも、歴史上最初のコンピュータはENIACである、という説が長く信じられていました。ところが1988年になって、「The First Electronic Computer : The Atanasoff Story」(Alice R. Burks & Arthur W. Burks)と「Atanasoff, Forgotten Father of the Computer」(Clark R.Mollenhoff)という2冊の本が出版され、その説をひっくり返しました。後者は『ENIAC神話の崩れた日』(右写真)というタイトルで邦訳されています。それによると最初のコンピュータはアイオワ州立大学の二人の科学者が作ったものであり、ENIACはそれを盗んだのだ、というのです。しかもその事実は裁判によって認定されている、というのですから驚きでした。しかし後になってこれらの本の内容も正確ではない、という説が発表され事態は渾沌としています。
そのENIACを作ったモークリーエッカートを始めとするチームは、引き続くプロジェクトとしてEDVACの作製に取り掛かりますが、開発まっ最中に計画の内容をフォン・ノイマンが論文にして発表してしまいます。 怒ったモークリーとエッカートはチームを離脱し、EDVAC開発計画は大幅に遅れてしまいました。一方、ノイマンの論文は瞬く間に世界に広がり、各国で「ノイマン型」コンピュータ製造が始まりました。それではその詳細をご覧下さい。

アタナソフ・ベリー・コンピュータ(ABC)

クリフォード・ベリー肖像 ジョン・アタナソフ教授肖像

第二次世界大戦中の1942年アイオワ州立大学のジョン・アタナソフ教授 (John Vincent Atanasoff/左イラスト) と大学院生クリフォード・ベリー (Clifford Edward Berry/右イラスト) が造ったコンピュータがアタナソフ・ベリー・コンピュータ(Atanasoff-Berry Computer/下段左写真)で、頭文字をとってABCと呼ばれています。300本の真空管と論理回路、入力用パンチカ−ド読取機、磁気ドラム式記憶装置で構成され、二進法などその後のコンピュータの基礎となる多数の技術を実装していました。
アタナソフは1903年ニューヨーク州生まれ、父イワン・アタナソフはオスマン帝国統治下のブルガリア出身で、祖父は1876年の独立戦争で死んでいるそうです。フロリダ大学で電気工学学士号を取得、アイオワ州立大学では数学の修士号を取得、ウィスコンシン大学で理論物理学の博士号を取得しました。卒業後、アイオワ州立大学で数学と物理学を教えました。
アタナソフは複雑な方程式を高速で解く方法を模索し、モンロー計算器などのアナログ計算機を研究しますが限界を感じ、デジタル式計算器の研究を始めました。しかし回路の構想が思いつかずに悩み、1937年の冬に雪の中をドライブして酒場でウィスキーを飲んでいる時突然アイデアが浮かんだと伝えられています。1939年、大学から650ドルの資金を得、優秀な教え子で電子工学のエキスパートだった院生クリフォード・ベリーに協力を求め、ABCの試作品が完成しました。
ABCは、29次線形連立方程式を解く事を主な目的とした「単一機能計算器」であり、汎用のコンピュータとはいえませんでした。基本的には機械式計算器がやっていた仕事を、真空管などの電子部品を使って高速化したものであると考えられます。しかしこのマシンが達成していた成果は、二進法の採用・電子回路・遂時計算・並列コンピューティング・記憶装置実装など次世代に採用される画期的なものばかりでした。コンデンサをドラム状に重ねたメモリ装置(再生式キャパシタメモリ/下段右イラスト)は速度的に足を引っ張る存在だったものの、リフレッシュ技術など原理的には後のメモリ装置を先取りしたものでした。ABCは動いていた時期が短かったために「本当に動いたのか?」という疑問がありましたが、1997年に復元されたものを起動させると立派に作動し、「最初の電子コンピュータ」であることを証明しました。
ENIACを開発するモークリーは1940年にフィラデルフィアで開かれたアメリカ科学振興協会でアタナソフと知り合い、1941年にアタナソフのもとを訪れ、アタナソフ家に寝泊りし、ABCを観察したり動かしてみたりし、さらにアタナソフの書いた設計書類を読んでアタナソフに質問を浴びせました。モークリーがこの時に初めて、もっと大規模なデジタルコンピュータの製作を思いついたのは確実なようです。1942年アタナソフはアイオワ州立大学を離れ、ワシントンの海軍研究所で働くことになりました。彼はABCの特許出願を大学の事務官に任せましたが、勃発した太平洋戦争のために忘れられてしまいました。
1943年にもモークリーは何度かワシントンのアタナソフを訪れ、電子回路や計算理論について話し合っています。しかし、自分がコンピュータ開発プロジェクトを立ち上げたことについては黙っていました。こうした事実のために20年後に「誰がコンピュータを発明したのか?」という法的問題が発生することになりました。アタナソフ自身はモークリーを批難することなく、「コンピュータ開発に携わった人間はすべて賞賛されるべきだ」と語っています。

復元されたABC
コンデンサドラム・メモリー
復元されたABC
コンデンサドラム・メモリー
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ENIAC

ジョン・モークリー肖像 プレスパー・エッカート肖像

1941年ペンシルバニア大学のESMWT(戦争技術管理訓練)プログラムは、軍役に招集された教授に代わる二人の博士を招聘しました。その中の一人がジョン・モークリー(John William Mauchly/左イラスト)で、彼はここで大学始まって以来の天才学生工学者と呼ばれたプレスパー・エッカート(John Presper Eckert Jr./右イラスト)に出会いました。この二人が企画し、製作したのがENIAC (Electronic Numerical Integrator And Calculator=電子式微分解析計算機/下段左写真) です。この時同時に招聘されたのがミシガン大学のアーサー・バークス(Arthur Walter Burks)博士で、後に妻のアリス・バークスとともにENIAC特許裁判でABC側に立って証言し、冒頭の「The First Electronic Computer」を著すことになります。
モークリーは1907年オハイオ州生まれ、ジョーンズ・ホプキンス大学の奨学金を得て同大で物理学博士号を取得、アーシナス大学で物理学を教える傍ら、気象観測・天気分析のための計算実験を繰り返していました。それはカーネギー研究所で同様の問題を研究していた父親の影響によるものでした。一方、エッカートはフィラデルフィア生まれ、フィロ・ファンズワース(テレビの発明者)の電子実験室やフィラデルフィア技術者クラブに出入りして少年時代をすごしました。ペンシルバニア大学入学後はレーダーの研究に取り組み、1939年磁場を測定してフィルムに記録する電子装置を開発、翌年には回折模様を利用してフィルムに音を記録する方法を開発して特許権を取得していました。
1941年の夏、モークリーとエッカートは電子工学技術を応用した高速計算機の研究を始め、モークリーがABCから学んだアイデアを示すと、エッカートがそれを大規模化する設計を考えました。1942年に二人は電子コンピュータ開発計画を陸軍に提出しますが、時期はまだ熟さず計画は棚上げされました。それが急転直下実現する運びになったのは1943年に連合軍が北アフリカに侵攻してからで、アフリカ大陸には今まで砲兵が見たことのない地形が展がっており、陸軍は弾道計算表を全面的に改修せざるをえなくなったからでした。しかしモークリーの提案を軍需会計部に認めさせるには、さらに弾道研究所(BRL)の陸軍大尉ハーマン・ゴールドスタイン(Herman Goldstine/次項イラスト)の推奨と説得が必要でした。
正式に契約書が交された後、いよいよENIACの製作が始まります。最初の難関は真空管の耐久性でした。エッカートと彼の工学技術チームはいろいろな真空管を試し、個々の真空管の寿命を増やす研究をしました。その結果低電圧で動き、しかも安価な冷陰極管を発見、電子コンピュータ開発の目処が立ちました。一方で「予防保守」を徹底、故障が発生する前に危険な真空管を取り除き、新しい真空管のみを残すことで回路は安定しました。 しかし真空管以外にも様々な問題が発生、ENIACの開発は遅れに遅れました。完成は終戦後のことで、最初の計算実験は1945年11月に行なわれました。開発にかかった総費用は60万ドルでした。
ENIACは始動ユニット・メインプログラムユニット・アキュムレータ(計算を行うユニット)・定数ユニットなどの多層構造になっており、順番にパルスが通り過ぎて行くと計算が出来る仕組みでした。アキュムレータはメモリーを兼ね、独立の計算が出来ました。全体容量は10進数12桁300語、パルスは1秒間に5千回発信されたので単純に計算すればクロック周波数5kHzということになります。
多くの軍関係プロジェクトは終戦と共に終了しましたが、ENIACの開発は続行されました。ENIACは軍事用途や安全保障目的を超えた異次元の価値を持つものと認識されたからです。ENIACはその後水爆の開発を始め、各種の軍事研究に使われました。
モークリーとエッカートはENIAC製作中に、すでに次のコンピュータ開発を模索していました。ENIACはとにかく立ち上げるため色々な妥協をしていました。たとえばENIACは専用メモリーを持っておらず、二進法ではなく十進法で、プログラムも配線を変えて対応するやり方でした。二人はマシンの完成と安定動作に全てを集中して置き去りにしてしまった問題を、まとめて解決するマシンを構想したのです。それはそれとして、このENIACは「電子の力で計算ができる」という将来への可能性を世界に示しました。また「要塞のように聳え立つ大型電子式汎用コンピュータ」という未来的なイメージを創造し、単なる計算器ではない「未来を開くコンピュータ」像を示したことは高く評価できます。ENIACはそういう意味でコンピュータ史上に最も重要な位置を占めるマシンといえるでしょう。また、ENIACを動かすために大勢の女性数学者が動員され、操作やプログラムに大活躍しました。(『女性とコンピュータ』参照)

 ENIAC   ENIACのイメージ図
ENIAC
 

ENIACのイメージ

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EDVAC開発の混乱

フォン・ノイマン肖像

モークリーとエッカートがENIAC完成前から設計を開始し、積み残した問題を全てクリアするためのマシンがEDVAC(Electronic Discrete VAriable Calculator)です。ENIAC同様、ペンシルベニア大学が米陸軍弾道研究所(BRL)のために製作する形になっていました。当初予算は10万ドル、実際にかかった費用はENIACよりも若干少ない50万ドルでした。
EDVACが目指したものはより速く、より柔軟で、独立した記憶装置にプログラムを内蔵した、より実用的なコンピュータでした。しかし開発中に重大な問題が起こりました。それはENIAC開発途中からチームに参加していた数学者フォン・ノイマン(John von Neumann/右イラスト)の干渉です。彼はEDVACが「チューリング・マシン」そのものであることに気づき、モークリーらに自分が数学理論をまとめるからと、論文を発表するように奨めました。しかし目の前の実機にしか興味のなかったモークリーとエッカートは断りました。不満を持ったノイマンに、論文作成をけしかけたのがペンシルベニア大学当局と軍顧問ゴールドスタインでした。彼らは無名のモークリーやエッカートよりも、当時すでに桁外れの天才マルチ科学者として有名だったノイマン(スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』に登場するマッドサイエンティストのモデルとされている)をこのプロジェクトの主人公に祭り上げることが自分たちの利益になると考えたのでした。そこでノイマンは1945年「First Draft of a Report on the EDVAC(EDVACに関する報告書第一稿)」を書き上げました。内部レポートのはずの文書がゴールドスタインらの手によって外部にも流出し、そこに書かれた新世代のコンピュータ像に大反響が起こりました。

EDVAC開発チームの崩壊

レポートの中でノイマンはこの設計思想を自分が考えたとは書いていません。しかし、世間の人々はノイマンこそこの画期的なコンピュータの設計者であり、開発の中心人物だと信じて疑いませんでした。このレポートを読んだ各国の技術者たちは、一斉に「プログラム内蔵式=ノイマン式」コンピュータの製造に取り掛かりました。怒ったのはモークリーとエッカートです。国家機密であるEDVACの開発内容を漏洩するだけでも問題なのに、その成果を独り占めされてはたまりません。当然ながらEDVAC開発チームの間に冷たい空気が流れました。
この事件とほぼ同時に別の問題も発生します。ENIACプロジェクト開始時には無関心だったBRLムーア学校の管理職たちが、世界的に有名になったENIACを学校の所有物にしようと画策し始めたのです。また、ペンシルベニア大学もENIACの特許権を大学に所属させるよう要求してきました。結局、エッカートとモークリーはチームを離脱し、大学も辞職してEDVACチームから引き抜いた技術者たちとともにコンピュータ製作会社を立ち上げました。主要メンバーがいなくなったEDVAC開発は大幅に遅れ、完成が1951年にずれ込んだので、世界初の「プログラム内蔵式」コンピュータの称号は1949年完成のEDSACに奪われてしまいました。ページのトップへ


コラム:ENIAC特許裁判の裏側

裁判イラスト

1967年、ハネウェル社はENIAC特許の無効性を主張してスペリーランド社を訴えました。スペリーランド社はレミントンランド社(エッカート&モークリー社を下請けに含む)とスペリー社が合併して出来た会社で、ENIACの基本特許を持っていました。またIBMと提携し、事実上この2社がコンピューター産業を独占していたので、ハネウェル社はその状況を打破しようとしたのです。
裁判は1971年6月に始まり、モークリーやアタナソフ、アリス・バークスらを含む77人の証人、80人の宣誓証書、30,000点の証拠品をかけて、1972年3月に結審しました。ラーソン判事は判決の中で次のように述べています。「エッカートとモークリーは自分たちで電子式コンピュータを発明したのではなく、ジョン・アタナソフの作品からそれを取り入れたのである」
スペリーランド社はこれに異議を唱えず、判決は確定しました。しかしこの判決の翌日、いわゆる「土曜の夜の虐殺」(注)が起きたため、特許問題は隅に押しやられ、ほとんど報道されませんでした。そのため法的にはABC が最初のコンピュータと認められたものの、その後も世間的にはENIACが世界初のコンピュータであると言われ続けました。
(注:ウォーターゲート事件渦中のニクソン大統領がしつこく迫る特別検察官アーチボルド・コックスを解任、司法長官エリオット・リチャードソン、司法次官ウィリアム・ラッケルズハウスを辞職に追い込んだ出来事)
後年、この判決を仔細に読んだ研究者は意外な事実を発見しました。当時、裁判所にはハネウェル社以外のコンピューター会社や政府閣僚・国会議員らから強い圧力がかかっていました。「コンピューター産業は今後のアメリカの経済成長に必要であり、二社の独占を許すべきではない」というのです。 しかし外圧によって判決を曲げるわけにはいきません。裁判官は頭を抱えました。その時、判事の一人がENIAC特許の申請書類をチェックしていて、それが提出期限を過ぎてから出されていることを発見しました。アメリカの特許法では、特許物を公開してから1年以内に申請することになっているのに、ENIACの申請は1年半後でした。ラーソン裁判長はENIACがABCのコピーであることを指摘しつつも、それとは別に手続きの不備を理由にして「ENIAC特許は無効」とする判決を出したのです。つまりこの判決は最初のコンピューターがどちらであるかを断定したものではなく、単に「事務処理の不手際で」特許が無効であると決定しただけだったのです。 しかし、『ENIAC神話の崩れた日』の著者を始め、この判決をもって「世界最初のコンピューターはABCマシンである」という主張をする人がたくさんいるようです。

IBM SSEC

SSEC ウォレス・エッカート肖像SSEC(Selective Sequence Electronic Calculator=順序選択式電子計算機/写真右)は、Harvard Mark I でエイケンに煮え湯を飲まされたIBMが社の威信をかけて開発した計算機であり、大規模なものとしては最後のリレー式計算機です。
開発責任者はIBMワトソン研究所のウォレス・エッカート(Wallace Eckert/左イラスト)でした。公式なデモンストレーションが行われたのは1948年1月で、完成後ニューヨークのIBM本社ビルの一階ショールームに設置され、通行人からマシンの作動が見えるようになっていました。
SSECの演算装置は電子乗算器IBM 603を改造したもので、プログラム内蔵式であり、13,500本の真空管と電気機械式リレーを併用、真空管は演算装置と8本の高速レジスタに使われていました。レジスタのアクセス時間は 1ミリ秒以下、また21,400個のリレーは制御装置と低速レジスタに使われていました。加算速度は285マイクロ秒、乗算速度は20,000マイクロ秒で、Harvard Mark Iの100倍の速さでした。
SSECは信頼性が高く、アメリカ原子力委員会による計算や惑星の軌道計算などに使われました。月の位置の計算にも使われ、1969年のアポロ計画フライトプラン策定で、コースを決めるデータに使われました。SSECは研究者から「最初のプログラム内蔵式コンピュータ」ではないか、と指摘されることが多いのですが、IBMはあくまで「これはコンピュータではない」と言っているそうです。ページのトップへ

Manchester SSEM(Baby)

フレデリック・ウイリアムス トム・キルバーン SSEM(Small-Scale Experimental Machine/下段左写真)はマンチェスター大学でウィリアムス管(下段右イラスト)の試験用に組み上げられた小型コンピュータです。設計したのは同大のフレデリック・ウイリアムス(Frederic Calland Williams/左イラスト)教授とトム・キルバーン(Tom Kilburn/右イラスト)、 A. M. Uttley、Geoff Tootill等でした。小型マシンといってもENIACなどに比べてのことで、The Babyというニックネームはちょっとしたジョークでした。
このマシンが開発された経過は複雑です。1945年国立物理学研究所 (NPL) に移動したアラン・チューリングACEの開発計画を出すと、経験のないNPL側はColossus の設計者トミー・フラワーズやケンブリッジ大学のモーリス・ウィルクス(次項)等に支援を要請しました。しかし彼等も多忙で、フラワーズのチームが水銀遅延線(後述)をいくつか製作しただけでした。最終的にこれを引き受けたのは通信研究所 (TRE)で、そこに居たフレデリック・ウィリアムスが水銀遅延線よりも有望なCRT(ブラウン管)を使ったメモリ装置を提案しました。しかしTREは組織改変の最中でウィリアムスもマンチェスター大学への移動が決まっていました。そこでCRTメモリの実験をマンチェスター大学に移動して行うことに決定、同大にいたマックス・ニューマンが全面的に協力しました。後にNPLに愛想をつかしてマンチェスター大学に移動したチューリングも参加しました。
こうして開発が始まったSSEMは1948年6月に完成し、世界初の内蔵プログラムが動作しました。長さ5.2m、高さ2.2m、重量約1t、550本の真空管を使い、消費電力は3,500ワットでした。演算装置は五極管 EF50を使用、32ビット・2進法・逐次演算・単一アドレスフォーマットという構成で、ウィリアムス管と呼ばれることになったCRTメモリは4本使用していました。1つ目は32×32ビットRAM、2つ目は計算結果一時保存用アキュムレータ、3つ目は実行中の命令とメモリアドレス保持、4つ目は出力装置で、他のウィリアムス管のビットパターンをディスプレイしました。演算実験では52分間に命令を350万回実行し、実質的なCPU速度は1.1kIPSでした。このマシンは実用的なコンピュータではなかったものの、現代の電子式コンピュータにある基本要素は全て備えた実働する世界初のコンピュータでした。それで、プログラム内蔵式コンピュータの第一号はEDSACではなくこのマシンだと主張する研究者もいます。 SSEMで設計の確実性が示されると、マンチェスター大学はACEプロジェクトの遅延を尻目に、さらに実用的なコンピュータ Manchester Mark I を開発するプロジェクトを立ち上げました。Manchester Mark I は、さらに世界初の商用汎用コンピュータ Ferranti Mark I のプロトタイプとなりました。
ウィリアムス管は、水銀遅延線の重く遅く高価でデータにランダムにアクセスできない、という欠点を補うメモリとして考案されました。ウィリアムスはベル研究所で見た、CRTを使ってレーダーの不要なエコーを除去するという実験にヒントを得、CRTの光面ドット上に電子銃で電荷を与えたり奪ったりすることで二進法のデータメモリとして使うことを思いついたのです。1947年秋にはキルバーンと共同で12インチCRTに64×32ビット2,048ビットまで記憶させることに成功しました。ウィリアムス管はMITで磁気コアメモリシステムが開発される50年台まで高速RAMとして使われました。
1998年、世界初のプログラムが動作してから50周年を記念してSSEMの実働するレプリカが製作されました。現在はマンチェスター産業科学博物館に展示されています。写真はその展示です。

SSEM   ウィリアムス管の模式図
SSEM
 
ウィリアムス管
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EDSAC

モーリス・ウィルクス

EDSAC(エドサック:Electronic Delay Storage Automatic Calculator=電子遅延記憶式自動計算機/下段左写真)は、最初のプログラム内蔵式(ノイマン式)コンピュータとして知られています。このマシンはフォン・ノイマンのEDVACレポートに刺激されたケンブリッジ大学のモーリス・ウィルクス (Maulice Vincent Wilkes/左イラスト)教授と数学研究所チームによって開発されました。
モーリス・ウィルクスは1913年生まれ、ケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジで学び、電離層の研究で物理学の博士号を取得しました。第二次世界大戦中はレーダーとオペレーションズリサーチに関する仕事をしました。1945年、彼はケンブリッジ大学数学研究所(後のコンピュータ研究所)の副所長に任命されます。そこでフォン・ノイマンのEDVACレポートを入手、即座にコンピュータの進むべき道はこれだと理解しました。ウィルクスは研究所の自己資金を使ってさっそくEDSACの開発に取り掛かります。彼の目標は大学がすぐに使えるシンプルで実用的なコンピュータでした。そのため開発期間も短く、もたつく本家のEDVACを追い抜いて世界初のプログラム内蔵式コンピュータの名誉を獲得したのです。完成したEDSACは当時計画されていた他のコンピュータと比べると小規模で低性能なものでしたが、世界初の実用チューリングマシンとして1949年5月に稼動開始しました。
EDSACは3000本の真空管を使用、容量1024ワード(18,432ビット)の水銀遅延線(=水銀遅延管/下段右イラスト)を備え、18種の命令を使用可能、消費電力は12kWでした。ウィルクスが実現した画期的な技術は「マイクロプログラミング」と呼ばれるもので、命令をマクロとマイクロとの2つのレベルに分割し、システムを単純化したのでした。さらにウィルクスは、ソフトとの関連でサブルーティンライブラリの概念を確立しました。プログラミングには同じ手続きを何回も利用することがあり、その度にプログラムを作成するのは無駄なので、共通に利用される部分だけ切り出してそこを共通のパーツ(サブルーティン)として利用する方法です。さらにそうしたサブルーティンを大量に集めてライブラリとし、プログラマに提供しました。これによってプログラム開発作業が飛躍的に安定し、合理化されました。
1953年にはイリノイ大学に出張していたデビッド・ホイーラー(David Wheeler)がケンブリッジに戻り、インデックスレジスタを設計してEDVACのハードウェアを当時の平均レベルまで拡張しています。また後継機EDSAC 2 は1958年に完成しました。1960年代にはマンチェスター大学・フェランティ社・Plessy社の三者で共同開発したAtlas が導入され、さらにTitan(Atlas 2)が製作されました。ウィルクスは1967年に第二回チューリング賞を受賞しています。
EDSACが初めて実装することになった水銀遅延線はENIACチームのプレスパー・エッカートがレーダーの実験中にヒントを得て発明したもので、水銀の中を通る超音波が電気信号に比べて速度が遅くなる性質を利用しています。水銀を詰めた管の両端に水晶振動子を取り付け、信号が入力されると超音波が発生、水銀の中を伝わり反対側の水晶振動子を振動させます。これを増幅して再び入力側に戻すと信号が循環して、記憶装置として使うことができるのです。水銀遅延線はEDSACの他にEDVACUNIVAC I、日本初の実用コンピュータFUJIC等に使われました。

EDSAC   水銀遅延線の構造図
EDSAC
 
水銀遅延線の構造
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Manchester Mark I

Manchester Mark I

Manchester Mark I (左写真:解体後保存された一部)はSSEMの成功を受け、1949年に同じマンチェスター大学の開発チームとFerranti社が製作した本格的なコンピュータです。Manchester Automatic Digital Machine(MADM)とも呼ばれています。特徴としては、データアクセス・コードが簡単に記述できるインデックスレジスタ装備、高級プログラミング言語Autocodeの使用などが挙げられます。
Manchester Mark I は、SSEMでのプログラム内蔵方式の有効性や、水銀遅延線よりも高速なウィリアムス管を使ったメモリシステムが成功したことにより開発始動しました。英国政府は1948年10月にフェランティ(Ferranti)社と契約を結び、その開発コンセプトを構築する作業を委託しました。改良点はウィリアムス管メモリにプログラムをロードする際に磁気ドラムメモリを使用すること、インデックスレジスタとハードウェアによる乗算器を追加することでした。ワード長は32ビットから40ビットに拡張、命令は10ビット、アドレスは20ビット、数値は40ビットで扱い、1024種類の命令を使えるはずでしたが、30種類の命令しかありませんでした。
最初の中間マシンは入出力命令がなく、ドラムからウィリアムス管、紙テープからドラムへのデータ転送機能が完成して最初の実用的プログラムが動作したのは1949年4月でした。1949年6月には9時間連続で動作、最終バージョンは10月に完成しています。磁気ドラムは2台となり、47トラックに容量アップしました。演算回路には4200本の真空管が使われていて、これが大きなトラブルの元になりました。それでも大学はマシンを一時間50ポンドで外部に貸し出し、大きな利益を上げました。
この後、Manchester Mark I の信頼性を向上させるためにDick Grimsdale と Doug Webb はトランジスタ化を計り、1953年11月に世界初と思われるトランジスタ・コンピュータ試作機を完成させました。このマシンはMetropolitan-Vickers 社のMetrobick 950 の開発につながりました。その後マンチェスター大学開発チームは単純で高速な Meg を開発、フェランティ社はMeg に磁気コアメモリを装備させたFerranti Mercury を商品化しました。
余談ですが Manchester Mark I 開発チームには、World Wide Webを開発したティム・バーナーズ=リーの両親となるコンウェイ・バーナーズとメアリー・リー・ウッズがいました。ページのトップへ

CSIRAC

トレバー・パーシー博士 CSIRAC CSIRAC(サイラック:Council for Scientific and Industrial Research Automatic Computer=科学工業研究評議会自動コンピュータ/右写真) はCSIR Mark1として知られた、オーストラリア最初のデジタルコンピュータです。また世界における4番目のプログラム内蔵式コンピュータであり、Zuse Z4とともにたった二台だけ完全に保存されている第1世代コンピュータです。
CSIR Mark1 開発チームのリーダーはトレバー・パーシー博士(Dr. Trevor Pearcey/左イラスト)です。パーシーは1919年ロンドン生まれ、インペリアル・カレッジを卒業し、戦時中に博士号研究を終えて、防空研究部で働きました。終戦後、オーストラリア科学工業研究評議会で働くために海を渡りました。1948年にパーシーは、同僚のMaston Beardと共に内蔵プログラム電子計算機のデザインを始めました。そのマシンCSIR Mark1は、1949年11月に完成し最初のプログラムを動かしました。それは英米を含めても4番目、英米以外では最初のプログラム内蔵式コンピュータでした。CSIR Mark1 は1955年にメルボルン大学に移され、CSIRACと改名されました。
CSIRACは第一世代コンピュータデザインをほぼ踏襲していました。20ビット768単語容量に従ったデータ保存には水銀遅延線を使用、メモリクロックは1kHzで稼働していました。パンチカードを使った実験が不成功に終わった後に、マシンへの入力は穿孔紙テープで実行されました。プログラムが一度に一つ通るようにコンソールが制御され、レジスタのコンテンツはCRTディスプレイに出力されました。記録には標準のテレプリンタ、あるいはパンチテープが使われました。当時の通例としてOSはありませんでしたが、1960年にはInterProgramと呼ばれるハイレベルのプログラミング言語が開発されました。
1951年頃、CSIRACは音楽を演奏するのに使用され、世界初のデジタル・ミュージックを演奏しました。現在も正確にそれを再現することが出来るそうです。また1964年までオーストラリアの科学者、技術者、およびメルボルン産業界に対するコンピューティングサービスを提供しました。その後マシンは1960〜70年代を通して倉庫に収納されました。1980年〜92年まで コールフィールド工科大学で展示されたことがありますが、また格納されてしまいました。マシンへの関心が蘇ったのは1990年代後半で、開発者の多くが高齢化し、貴重な歴史が失われそうになったので1996年周辺会議が開かれました。そしてCSIRACは2000年からメルボルン博物館で永久展示されることになりました。
トレバー・パーシーは1948年2月にこう書きました。『思いもよらない近い将来に、テレプリンタか電話を通して百科全書的な情報自動サービスが開始されるだろう』この、インターネットの出現を予言する言葉を残したパーシーはコールフィールド工科大学=モナッシュ大学の学部長を務め、1960年代のCSIRO(オーストラリア科学産業省)コンピュータ開発に携わりました。その功績を讃えてPearcey財団、およびPearcey Awardが設営されました。1998年メルボルン南方の保養地モーニントン半島で没。ページのトップへ

BINAC

BINACBINAC(バイナック:Binary Automatic Computer/左写真)は、エッカート-モークリ・コンピュータ社が運転資金に行き詰まり、手付金を目的に航空機メーカー、ノースロップ・エアクラフト社の注文に応じて設計した米国初のプログラム内蔵式コンピュータであり、世界初の商用コンピュータです。
モークリーとエッカートはこの時もうペンシルベニア大学を離れ、UNIVAC I を受注して開発を行っていました。ところがこれが15万9000ドルという大幅に採算割れの安い価格だったため、たちまち資金が足りなくなりました。(実際の開発費は100万ドル以上かかった)そこで人員的な余裕はなかったものの、ノースロップ社からの前払い金10万ドルを運営資金にあてようとBINACの開発を請け負いました。ノースロップ社はミサイル誘導装置に使用する、比較的小さなコンピューターを求めていました。しかしBINACの動作は不安定で、いくつかの小規模な計算をこなしたものの、結局本来の目的に使われることはありませんでした。そのため世界初の商用コンピュータでありながらほとんど存在を知られていません。
BINACは互いの結果をチェックし合い、ハード障害を検出できるようになっている二つのCPUを持つ「双子」のコンピュータでした。各CPUには水銀遅延線メモリが512ワードずつ装備され、各自に約700本の真空管を備えていました。1949年3月、BINAC上でテストプログラムが実行されましたが、完全には動作しませんでした。BINACは1949年9月にノースロップ社に引き渡されました。しかしその後もまともに動作しませんでした。ただ、入出力メディアとして磁気テープの使用、比較的広いメモリにプログラムを格納、迅速な自動制御などの新機軸を実現していたので、少なくともUNIVACの開発にはよい実験の場になったようです。


コラム:スポンサーは誰?

お金のイメージコンピュータの開発には大変なお金がかかりました。なので初期のコンピュータ製造にとってユーザないしスポンサーが決定的に重要でした。ENIACがアメリカ陸軍弾道研究所、Harvard Mark I がアメリカ海軍の注文というように、軍部のオーダーを受けさえすれば軍需会計部のほとんど無際限の「打ち出の小槌」が手に入りました。軍の兵站業務や予算監理局の購買部門もお得意先でした。それ以外にも、軍の委託先であるシステム・エンジニアリング会社の高度な設計作業における計算作業が大きく、中でも航空産業の膨大な計算業務がコンピュータ事業を成長させる大きな原動力となりました。
他には連邦政府の行政需要、人口統計局、アメリカ特許庁、社会保障制度管理局など政府の施設部門がデータ処理システムの大きな市場を構成しました。これらのユーザはコンピュータの市場を供給しただけでなく、同時にまだ手探りのメーカー側にコンピュータ・システムに関する技術知識までも提供してくれる貴重な存在でした。コンピュータ・ビジネスはこうして行政・準行政組織と二人三脚で成長することになりました。


◆参考文献
『ENIAC神話の崩れた日』
クラーク・R. モレンホフ (著), 最相 力, 松本 泰男 (訳)
出版社: 工業調査会 (1994/08)
ISBN-10: 4769350880

◆参考サイト アイオワ州立大学・アタナソフ教授
        http://www.cs.iastate.edu/jva/index.shtml
        日本ユニシス:ENIAC誕生50周年記念-その歴史を追って-
        http://www.unisys.co.jp/ENIAC/index.html
        マンチェスター大学:コンピュータ生誕50年記念
        http://www.computer50.org/
        ビクトリア博物館・CSIRAC
        http://museumvictoria.com.au/csirac/ ほか多数

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