コンピュータ100年史
part8:MPUと第四世代コンピュータ
マイクロプロセッサの発明
マイクロプロセッサ(Micro-Processing Unit/MPU)はLSIの一種であり、その一変形であると言えるでしょう。つまり専用LSIから「プログラム内蔵汎用LSI」へと進化した形です。専用回路に比べると速度は遅いものの、プログラムを変えるだけで多様な処理が行えるので色んな用途に使え、しかも修正・更新が容易です。このためMPUは家電製品から自動車・航空機・建築などのあらゆるシステムに内蔵され、現代の産業や生活の屋台骨を支えています。
ICが大規模化していく時代、多くの研究者の胸のうちに「一つのチップの中にコンピュータ全体を構築できないか」というほぼ共通の発想が生まれます。これをIntel4004を開発した嶋正利氏はこう述べています。「アイディアを思いついても大半の人は実行しないものだ。1963年ころに,“Computer On Chip”という概念が専門家の間で言い始められた。しかし,専門家は誰も開発しなかった」(下記リンク参照)。そして4004が開発された後で「私も開発していた」とみんなが言いたがるが、それは「みんな嘘である」と続けています。しかし嘘ばかりではありませんでした。1968年にはギルバート・ハイアット(Gilbert Hyatt)という人物が「マイクロコントローラ」で特許を取っています。しかしこれは後に取り消されているそうです。1969年にはフェアチャイルド社出身のリー・ボイゼル(Lee Boysel)によって四極システムAL1(4-Phase Systems AL1)というチップが設計されました。ボイゼルはこれこそ最初のマイクロプロセッサであるとして、テキサス・インスツルメンツ(TI)社と特許権を争いました。さらに最も確実なものとして、1970年にGarrett AiResearch社が開発し、F-4ファントムに代わる次世代戦闘機F-14トムキャット(右写真)に搭載されたコントローラ・チップがあります。このMP944チップ・セットは軍事機密として1998年まで秘匿されていました。
さらに4004と同時期の1971年になるとピコ・エレクトロニクス(Pico Electronics)社とゼネラル・インスツルメント(GI)社が共同開発した単一チップ電卓、Royal Digital III(下段左写真)が登場しています。これに使われたCPU(下段中央写真)はROM、RAMおよびRISC指示セットがオンチップで搭載されており、完全なマイクロプロセッサでした。そして同じ年にTI社のゲーリー・ブーン(Gary Boone)が4ビットのマイクロコントローラTMS 1000(下段右写真)を発表し、1973年9月に単一チップ・マイクロプロセッサー・アーキテクチャーの特許権(ブーン特許)を取得しました。このように、あたかも沸騰点に達したお湯の中から泡が噴出すようにあちこちでマイクロプロセッサは造られていたのです。しかしそれはそれとして、まったくオリジナルに開発された4004の名誉は失われることはないでしょう。![]()
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Royal Digital III |
R Digital IIIのCPU |
TMS 1000 |
消えたCTC 1201
1960年代の末頃、オハイオ州クリーブランドのケース・ウェスタン・リザーブ大学(Case Western Reserve University)の二人の教授がプログラム可能な高密度集積回路についての設計案を作成しました。そしてそれを商品化しようといくつかのICメーカーに持ち込みましたが、ことごとく断られてしまいました。唯一興味を持ってくれたのがテキサス州サンアントニオにあったCTCという会社です。Computer Terminal Corporation(コンピュータ端末株式会社)というこの会社は、文字通りサーバ端末を製造している会社でした。当時の代表的な端末はこの会社が造ったDataPoint3300(左写真)で、従来の入出力機能しか持たない端末から進化した、それ自体も情報処理機能を持つインテリジェント端末と呼ばれるものでした。DEC社とHP社がこれをそれぞれDEC VT06、HP 2600Aとして販売していました。CTCは3300の後継機にマイクロプロセッサを使いたいと考えたのです。
CTCにはNASA出身のガス・ロッシュ(O.”Gus”Roche)とフィル・レイ(Phil Ray)という二人の技術者がいて、「パーソナルな」コンピュータの開発に意欲を燃やしていました。彼らと役員のジョン・フラザニート(John Frassanito)は二人の教授が作った詳しい企画書とともにこのチップCTC 1201の開発を新進のチップ製造会社テキサス・インスツルメンツとインテルという二つの会社に依頼します。開発は難航し、一方のTI社は早々とギブアップしました。残ったIntel社はギブアップはしませんでしたが、開発を一時棚上げすることになりました。
この開発が再開されたのは4004が成功し、そのノウハウを得て高度
の論理回路設計が可能になってからでした。結果としてIntelが提供したチップはCTCが求めた性能に及ばず、Intelは5万ドルの開発費を返却、チップを自社の製品として販売することになりました。それが世界初の8ビットMPU・8008です。CTC 1201は結局日の目を見ず、CTCの次世代機DataPoint2200(右写真)のCPUは論理集積回路(TTL)を使って作製されました。
この時の顛末をフラザニートはこう回想しています。「私が述べた『チップにコンピュータを印刷する』という説明にロバート・ノイスは興味を持ちました。しかしこう言ったのです。『今なら何十個ものチップが売れるのに、これが出来たら一個だけ売ることになるね。まずい商売だよ』。しかし、結局彼はこの仕事を引き受けたのです」ノイスがCTCの企画書を学び、4004開発チームにノウハウを伝達したという推測は可能でしょう。1972年フラザニート、ロッシュ、レイの3人はDatapoint2200を最初のパソコンとして特許権を申請し、それを取得したついでに社名をDatapointに変更しました。このDatapoint2200を第四世代コンピュータと呼ぶことは出来ないようです。![]()
Intel 4004の開発
1969年、日本の電卓製造会社ビジコン社は激化する電卓戦争に勝ち抜くための武器として、4ビットのマイクロチップを設計しました。多様な顧客の注文にいちいち別の回路を造るのではなく、少数の多機能チップを使いまわせばコストが削減できると考えたのです。ビジコンはこのチップ製造を高名なノイス博士のいるインテルに依頼することにして、担当の技術者嶋正利をアメリカに派遣しました。ところが当時のインテルは8ビットのCTC 1201開発の最中で、誰も4ビットのチップなどに興味を持ちませんでした。正式な契約を結んで帰国した嶋が、「もう設計が終わっているだろう」と思って翌年再訪米すると、計画はまったく白紙のままでした。怒った嶋が猛烈に抗議したのでインテル側は遅まきながらチームを準備しました。それがコンサルタントのテッド・ホフ(Marcian Edward ”Ted” Hoff Jr.)、イタリア系技術者フェデリコ・ファジン(Federico Faggin)、プログラム担当のスタンリー・メイザー(Stanley Mazor)の三人でした。(下記イラスト参照)しかしハードとソフトの両方が分かり、実際にチップの論理設計が出来る人間はいなかったので、嶋自らがそれをやるしかありませんでした。仕事を始めるとファジンもメイザーも有能な技術者だったのでお互いにアイデアを交換しあい、チップの設計は進みました。しかし最も基本的なアイデアを出したのはホフで、12種類のチップを開発する当初のビジコンの予定を「一個の汎用チップで済ませる」ことになったのです。世界初のマイクロプロセッサ4004の誕生でした。
ホフのアイデアは複数桁の演算処理を1桁の演算の反復で置き換える事、外部機器制御回路をソフトウェアによる制御に置き換えることなどで、これがマイクロプロセッサの原点となりました。このアイデアにしたがって、嶋とファジンが論理設計とチップのレイアウトを行いました。メイザーは端末からサーバに仮想回路を造ってシミュレーションを行い、アーキテクチャや命令セットを定義しました。
設計で最も難問だったのはメモリで、当時の高価なRAMチップは使えず、安価なメモリ回路で代用しました。こうして出来上がったプロセッサはpMOSプロセスで3mm×4mmのダイの上に2,300個のトランジスタを集積、500kHzから741kHzのクロックで駆動しました。外装は16ピンDIP、少ないピン数をカバーするためにアドレスバスとデータバスは時差分割で動くよう構成されていました。
当初の契約ではこのチップはビジコンに対する専売だったのですが、ファジンがノイスにこの契約の独占使用権条項を無くすよう進言しました。チップの汎用性に気付いたノイスはビジコン側に契約の破棄を要望し、ビジコン側は資金に行き詰っていたので、契約金の一部を払い戻させることでインテルにチップの全権利を渡しました。チップは1971年11月に正式にIntel 4004(左写真)として出荷が開始されました。販売権と特許が日本側に残されていたら、その後のパソコンが生み出した利益の多くが日本にもたらされたかもしれない、と考えると惜しい気がします。設計を主導した嶋が社外の人間だったので、インテルは特許取得にも消極的でした。その結果、MPUの特許はTI社に奪われてしまいました。インテルは最初のMPUを作ったにもかかわらず、長い間TI社に特許料を支払うことになりました。![]()
8008と8080
4004が完成し、そのノウハウをフィードバックする形で出来たIntel 8008(1972/下段左写真)は8ビットチップとしては力不足でした。それでも史上初の8ビットMPUとして、数字だけでなく文字が扱えたので、売り出されると引き合いがありました。最初に採用したのはビジコンから移動した嶋がいた日本のリコーだったそうです。次にフランスのR2E社が8008を使ったパソコンMicral-N(1973/下段中央写真)を製作しました。同時期にScelbi(SCientific Electronic and Biological)社がScelbi 8Hを製作しました。最も有名なのはバージニア工科大の大学院生ジョン・タイタス(Jon Titus)が博士論文のために製作したMark-8(1973/下段右写真)で、当時の人気雑誌Radio Electronic Magazineの表紙を飾りました。これらは最初期のパソコンであり、第四世代コンピュータであると言うことが出来るでしょう。
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Intel 8008 |
Micral-N |
Mark-8 |
8008の性能に満足できなかったインテルは新たな8ビットMPUの開発を計画しました。しかし4004の基本設計は嶋が、8008はCTCが造ったのでインテルにはMPUを一から創れる技術者がいませんでした。困ったインテルは急遽日本から嶋を呼び寄せることにしました。ビジコンからリコーに移籍していた嶋はまた創造的な仕事に戻りたいと思っていたのでMPU開発が出来ることを喜び、インテルの誘いに応じました。
嶋は4004開発の経験から自分なりの自信を持っていて8008ベースの基本設定を白紙に戻し、一から8ビットMPUの論理設計をやり直しました。その結果出来上がったのがIntel 8080(1974/左写真)です。このチップは大幅な高速化と多機能性を実現していて、発売されるとたちまちベストセラーになり、これを使ったたくさんのパソコンが造られました。その代表的なマシンがMITS(Micro Instrumentation and Telemetry Systems)社が一般消費者向けに発売した世界初の量産パソコンAltair 8800(アルテア/1974/右写真は雑誌広告の一部)です。アルテアは組み立てキットで397ドル、組立済みで498ドル という破格の安さだったので全米から注文が殺到しました。小規模事業所のMITS社は大量の注文に応じられず、その隙間にアルテアのコピー製品が氾濫するという事態も出現しました。中には本家よりも優秀な互換機があって、その技術が本家にフィードバックされたりもしました。また本体だけでは使い物にならず、必要な各種の拡張カードや周辺機器が関連各社から発売されて一種の特需が起こりました。ポール・アレンとビル・ゲイツの手によってMS Basicが開発され、これが標準ソフトとして普及し、Microsoft社勃興のベースになったというエピソードも残しています。こうしたブームが1977年の「パソコン元年」まで続きました。
余談ですが、アルテアという名はMITS社長の友人の娘が「スタートレック」のファンで、そこに出てくる「アルタイル6番星(Altair VI)」という名前を推したことから付けられたそうです。![]()
その他の8ビットMPU
Intel 8080のライバルの8ビットMPUとしてはモトローラ社のMC 6800(1974)、モトローラからスピンアウトしたモステクノロジー社のMOS 6502(1975)、ザイログ社のZ80(1976)などがありました。MC 6800はミニコン用プロセッサを簡易化した高級MPUで、かなり高価であり、自社の組み立てキットMEK6800Dや日立のH68/TR、 ベーシックマスターシリーズなどに使われました。モトローラ社は通信機器メーカーとして押しも押されもしない存在で、当時は吹けば飛ぶようなベンチャー企業だったインテルをライバルとも思っていなかったようです。
MOS 6502はMC 6800をモデルに内部の簡素化と複数のパイプライン機構を加え、同時期に設計されたMPU群に比べて格段に高速でしかも安価でした。そこでスティーブ・ウォズニアックのApple I(1976)とその後継機でベストセラーとなったApple II(1977/左は当時の広告写真の一部)に使用されて「パソコン革命の主役」となり、一躍有名になりました。しかしモステクノロジーはモトローラとの間に特許紛争を抱えていたのでMOS 6502は広範に使われるまでには至らず、コモドール社のPET 2001(1977)、VIC-1001(1977)に使われた他は、ファミコンやPCエンジンなどゲームマシンに使われた程度でした。
Z80はインテルからスピンアウトした嶋正利とフェデリコ・ファジンが興したZilog(ザイログ)社のMPUで、8080の改良版といえる製品だったので互換性があり、しかも本家よりさらに高速で多機能でした。このためにZ80は爆発的ヒットとなり、たくさんのパソコンが作られて、コピーや互換MPUとともに黎明期のパソコン世界を席巻しました。
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MC 6800 |
MOS 6502 |
Z80 |
16ビットMPU
8ビットMPUはパソコンの時代を切り開きましたが、速度や機能の点でその限界が明らかだったので、ミニコンやワークステーション並みのパワーを持ったMPUが希望されるようになりました。それに応えて登場したのが16ビットMPUです。
最初に発表されたのはNational Semiconductor社のIMP-16(1973)でした。しかしこのチップは4ビットチップIMP-00Aの発展形ということが分かっているだけで、詳しいことは不明です。
続いて発売されたのがTI社のTMS9900(1976/下段左写真)で、こちらは初期の代表的なMPUとなりました。ただ、かなりユニークな構造だったので広範な用途には向いていなかったようです。
大本命となったのはやはりインテルのIntel 8086(1978/下段中央写真)で、現代まで続くいわゆるX86アーキテクチャの元祖として記念碑的なチップとなりました。しかしX86を広げたIBM/PC(1981)に搭載されたのは内部8ビットの廉価版8088(1979)の方で、これは経済性というよりは、8ビットマシンとの互換性を重視した採用だったようです。日本国内でもこちらがよく使われていました。対抗馬のモトローラ社MC 68000(1979/下段右写真)は内部32ビットで動作する高級MPUで、Sun-1などのワークステーションのほかにはApple Macintoshや日本のSHARP X68000に採用されました。---この続きは「PC20年史」「インテル対AMD CPU開発競争」でどうぞ。
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TMS9900 |
Intel 8086 |
MC 68000 |
コラム:スペースインベーダ
インテルの16ビットMPU8086が登場した1978年、ゲーム史上にエポックを築いた大ヒットゲームが登場します。それがタイトーのアーケードゲーム『スペースインベーダ』(右写真)です。
このゲームは前年まで流行した「ブロック崩し」を発展させたもので、様々な仕掛けが施されており、それに対抗する技が口コミで広がって仲間内でお互いに情報を交換しつつ高得点を狙うという、現在の情報化社会に適応したゲームスタイルを確立した作品でした。作者はタイトーの子会社パシフィック工業社員の西角友宏(にしかど ともひろ)氏。
このゲームの流行によって起きたエピソードには、(1)全国で100円硬貨が不足し、大蔵省は急遽100円玉を追加鋳造した (2)「インベーダーハウス」と呼ばれるゲームセンターが各地に乱立し、不良の温床になるとして問題になった (3)普通の喫茶店なのにゲームテーブルを設置して「インベーダー喫茶」 になってしまう店が続出した (4)100円玉を詰めた集金袋を運ぶためタイトー社員のほとんどが腰痛になり、運搬用のトラックのサスペンションが次々壊れた (5)こうした事態に対処するためにタイトー本社は三菱ふそうに相談してトラックの後部に取り付ける電動リフトを特注した--これが現在のトラック用リフトの元祖となった などがあります。また、このゲームのコピーや亜流を作るために設立されたゲーム会社のいくつかが、今のゲーム業界を支える存在になっています。さらに後続ゲームがギャラクシアン(1979/ナムコ)、ゼビウス(1983/ナムコ)と変わる中で映像やストーリーが高度化され、ゲーム大国日本が出現するきっかけになりました。![]()
サンの躍進と凋落
第3.5世代に登場したワークステーションはMPU時代になるとさらに発展し、すっかりミニコンに置き換わり、メインフレームまでもおびやかす存在になりました。その代表的なメーカーがサンです。
サンはStanford University Networkの頭文字SUNをとったもので、正式名称はサン・マイクロシステムズ(Sun Microsystems, Inc.)です。スタンフォード大学で校内ネットワーク用のワークステーションを開発したアンディ・ベクトルシャイム(Andy Bechtolsheim)、スコット・マクネリ(Scott G. McNealy)らが設立した会社で、彼らは創立にあたってUCバークレーでBSD/UNIXを作ったビル・ジョイ(William Nelson Joy)を招き、UNIXを使ったオープンシステムに基づく営業活動を行いました。これがネットワーク時代の要請に合い、インターネットを中心とした世界市場で一人勝ちといってよいほどの成功を収めました。
ハードとしてはSun-1の後を受けたSun-2(1983/下段左写真)がモトローラ MC68010/10Mhzを使用、Sun-3(1985/下段右写真)がMC68020/20MHzを使っていて、それぞれサーバタイプとデスクトップタイプがありました。ここまでは順調だったのですが、Sun-4(1987)からRISCアーキテクチャに基づいたオリジナルMPU、SPARCを使い始めたことがつまずきのきっかけになりました。元々企業規模がそれほど大きくないのにハードとソフトの両面で開発競争にさらされ、次第に遅れをとり始めたのです。1990年代に入るとサンはCPU開発ではIntel、AMD陣営に差をつけられ、ソフトではJavaの開発に集中した結果UNIXエンタープライズ系への対応が遅れてしまうという虻蜂取らずの状況に陥いりました。その結果業績が悪化し、2009年になってラリー・エリソン率いるオラクルに吸収されてしまいました。
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Sun-2 Server |
Sun-3 Desktop |
メインフレーム陣営の動き
第四世代になってワークステーションやパソコンの性能が向上し、WindowsやUNIXなどオープンなシステムがサーバとクライアントの両方に使われるようになると、クローズドなシステムのメインフレーム陣営は「過去の遺産」「滅び行く恐竜」などと呼ばれて急速に業績が悪化しました。IBMは「オープン・メインフレーム・サーバ」と称してCPUを低消費電力・高集積度のCMOS化、64ビット化、Linuxサポートを行って生き残りを計ります。その主力商品はIBM-4000シリーズ(下段左写真)です。
スペリー社とバロース社は合併してユニシス社となり、CMOSを全面採用した汎用コンピュータ2200(1986/下段右写真)シリーズを開発しました。ソフト的にはUNIVAC系とバローズ系のメインフレームを継続しながら、WindowsやLinuxを同時稼動可能にしました。日本電気と富士通はメインフレームを既存業務用として残すのみとなり、Windows Serverへの移行を計りました。日立はIBMの技術提供を受けてCPUのCMOS化、64ビット化を行い、一時はLinux対応サーバを作っていました。この苦しい状況は21世紀に入って安定性とセキュリティに優れたメインフレームが見直されるまで続きます。![]()
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IBM-4381 |
Univac2200 |
アイヴァン・サザランドとコンピュータ・グラフィック
煩雑になるので意図的に省略していた重要なジャンルがコンピュータ・グラフィック(CG)です。CGはGUIやリアルタイム・オペレーション、ゲームやDTPなど、数字計算以外のコンピュータ利用に不可欠な要素と言えるでしょう。このジャンルの第一人者がアイヴァン・サザランド(Ivan Edward Sutherland/右写真)です。
サザランドは1938年ネブラスカ州ヘイスティングス出身、カーネギー・メロン大学で電気工学を学び、カリフォルニア工科大学で修士号を取り、MITに来て「スケッチパッド」というシステムを開発しました。その成果によって博士号を取得、J・C・R・リックライダーに認められて25歳という若さで国防省先端技術開発局(ARPA)の二代目指揮統制部長に抜擢されました。スケッチパッドはドロー系ツールの元祖的存在で、トグルスイッチとライトペンを用いたオペレーションによりディスプレイ上に図形を描き、それを自由にコントロールすることが出来ました。当初の目的は軍事用で、SAGE(半自動防空システム)のリアルタイム・オペレーションや空海軍の訓練用フライト・シミュレータとして使用されました。しかし用途はそれにとどまらず、マスター/インスタンスと呼ばれる構成要素とそれらを用いた動作過程、SIMULA言語とそのプロセス/アクション(クラス/オブジェクト)システムなどの開発品はCGの基礎として現在も活用されています。またユタ大学で教鞭を取った時にはアラン・ケイを指導し、彼のオブジェクト指向という考え方に決定的影響を与えました。他にもCG技術者のヘンリ・グーロー(Henri Gouraud)、フランク・クロー(Frank Crow)、アニメ会社ピクサー社長のエドウィン・カトムル(Edwin Catmull)などが教え子でした。1968年にはエヴァンス&サザーランド社を設立、アドビ社の創立者ジョン・ワーノック(John Warnock)、シリコングラフィック社の創立者ジム・クラーク(Jim Clark)らを育てました。サザランドはこうした長年の功績により、1988年度チューリング賞を受賞しています。![]()
第五世代コンピュータとは?
さて、第四世代まで発展してきたコンピュータですが、次に来る第五世代とはどんなコンピュータになるのでしょうか。この問題にはまだはっきりした答えがありません。
MPUはムーアの法則に従って大規模化して来ました。しかし既に物理的な限界に来ていると言われています。回路の細密化が進んで、電子が漏れてしまうほどの小ささになってしまうからだそうです。それで第四世代コンピュータのあとには物理的な回路以外の素材を使ったコンピュータが来るはずですが、これが案外渾沌としています。
これまで提案されてきたものには、神経細胞の仕組みに似た回路をタンパク質で造るというバイオコンピュータ、生物の細胞そのものを使う生体分子素子(バイオチップ)コンピュータ、そして量子力学的な重ね合わせを用いる量子コンピュータ・光子コンピュータがあります。バイオコンピュータ、バイオチップコンピュータは1980年代に通産省のΣ計画として研究されていますが、ほとんど何の成果も上げられずに終了しています。570億円を費やしたΣ計画には当時の関係者から「下請け・孫受け・ひ孫受けに投げられて上層部だけが美味しい所を吸い取り、巨費の殆どが食いつぶされてしまった」と批判する声がありました。
NEC研究開発ページより
量子コンピュータはもう少し実態があります。量子とはエネルギーを持った粒子の一般的な呼び方で、量子コンピュータは量子がプラスとマイナスの両方の値を持っていることに注目し、それを計算に生かそうとするものです。(上図参照)1980年にポール・ベニオフ(Paul Benioff/アメリカ)が量子系においてエネルギーを消費せず計算が行えることを示し、リチャード・ファインマン(Richard Phillips Feynman/アメリカ)も量子計算が古典計算(現在の計算システム)に対し指数関数的に有効だとする研究を行いました。これに基づき1985年デビット・ドイッチュ(David Deutsch/イギリス)が量子計算機の原モデル「量子チューリングマシン」を定義、量子回路を考案しました。1994年にはピーター・ショー(Peter W. Shor/アメリカ)により「Shorのアルゴリズム」が考案され、一気に実現性が増しました。しかしいずれも理論レベルの問題であり、回路の開発までには長い時間がかかりそうです。![]()
OSの歴史ダイジェスト
付録として現在までに使われてきたメジャーなOSの模式的な関連図を掲載しておきます。
(図をクリックすると別ページで拡大図が開きます)
| メインフレーム | IBMのOS/360とGE・MITのMULTICSを源流とし、そこから派生したUNIXがネット時代を支える存在になりました。 |
| ミニコン | PDP時代はTENEXが、VAX時代はVMSが主流でしたが、ネット時代になると大勢はUNIXに移りました。 |
| ワークステーション | NLSとCG言語SimulaがSmallTalkの源泉となりました。Xerox以外はUNIX搭載マシンが多いようです。 |
| パソコン | 21世紀になる前後にパソコン陣営のOSがVMS系とUNIX系に切り替わったのは印象的です。 |
この図表の特徴はUNIX・VMS・SmalltalkがパソコンOSに与えた影響を明示している所でしょう。MS-DOSにはUNIXからの機能の応用がありましたし、Windows3.1にはStarが、Windows95にはスティーブ・ジョブズがNEXTで開発したNextStepのオープンバージョンOpenStepからの機能の応用がありました。NextStepはMacintoshの新時代OSのベースにもなりました。WindowsNTは一から新しく設計され、それを担当したのはDEC社でVMSを開発したデビット・カトラーでした。現在の携帯電話とパソコンの市場にはグーグルが開発したAndroidが大きく影響しようとしていますが、これはLinuxベースのOSです。この図表から将来のOSの行方が見えてくるでしょうか?
◆参考書籍 『量子コンピュータとは何か』
ジョージ・ジョンソン (著), 水谷 淳 (翻訳)
早川書房 (2004/11/25) ISBN-10: 4152086076
◆参考サイト 佐野ゼミナール(明治大学経営学部)
http://sano.s20.xrea.com/history_of_intel4004.htm
嶋正利のプロセッサ温故知新(日経ITpro)
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20061219/257298/
『パソコン創世記』富田倫生
http://attic.neophilia.co.jp/aozora/htmlban/gopc.html ほか多数















