パソコン20年史(1977〜1997)
part7:パソコン歴史アラカルト
失われた10年?

上のグラフをご覧ください。1980年代後半から90年代まで、日本ではパソコンの普及率が横ばいで、アメリカとは大きな差が出来てしまいました。業界ではこれを「失われた10年」と呼ぶそうです。DOS時代はともかく、Windows3.1から95に移行してからもそれほど大きな伸びにならなかったのは注目されます。

なぜこんな差が出たのかというと、パソコンでの日本語処理が困難だったからです。このグラフに日本国内でのワープロ専用機の普及率を重ねてみると、事情がよく分かるでしょう。パソコンでうまく日本語処理が出来るようになるまでにはずいぶん長い時間がかかりました。その間、日本人はワープロ専用機でことを済ませていたのです。またパソコンを使うには本体のほかに高いディスプレイ、プリンタ、HDDなどの周辺機器とパッケージソフトが必要で、オールインワンのワープロ専用機の方がはるかに安上がりだったこともポイントです。
このグラフを右に伸ばすと、ワープロ専用機が急激に落ち込み、パソコンの普及率が急角度に上昇してアメリカを追い越します。日本人は決して電脳後進国ではなく、むしろアメリカよりも電子頭脳が好きな国民であったことが分かります。ちなみにゲーム専用機も10%を越える普及率がありましたので、総合的にはアメリカを圧倒していたことになるかもしれません。![]()
アタリ2600とアタリショック
コンピュータゲームの祖先はUNIXとC言語の発祥エピソードで名高い「スペース・トラベル」やWhirlwind用に作られた 「スペース・ウォー」です。(言語とOSの章参照)これらのゲームを専用アーケードゲーム機に移植し、商売にしようと考えたのがノーラン・ブッシュネルという人物で、彼が1972年に創業した会社がアタリです。この名前は日本棋院初段のブッシュネルが囲碁用語からとったものです。会社のマークも富士山を使っていて、ブッシュネルの日本びいきは相当なものです。アタリ社が1977年にアメリカで発売したテレビゲーム機Atari 2600は、プログラムROMをカートリッジにおさめて外部から供給できるようにし、爆発的な人気を博しました。ブームは5年ほどで終わり、そのあとを継いだのが任天堂のファミコンです。Atari 2600の出荷台数は最終的に1400万台を超えました。
1982年末、ゲームの乱開発・粗製濫造が原因でユーザーがゲームに対する興味を急速に失い、ゲーム市場が崩壊するという現象が起こりました。それまでバブル的に急伸した家庭用ゲーム機とソフトの売上が急転直下ゼロに近くなり、ゲーム関係者は茫然自失しました。これを「Video game crash of 1983」と呼び、この現象を当時の最大ゲームメーカーだったアタリの名前で「アタリ・ショック」と呼ぶようになりました。
ソフトの供給過剰や粗製濫造により市場需要および市場規模が急激に縮小する現象を指します。
CPU MOS6507(下記6502の廉価版) RAM/6532 RIOT VRAM/TIA
任天堂 ファミリーコンピュータ
カセット式テレビゲーム機はフェアチャイルド社とアタリが開発したもので、その市場をまるごと受け継ぐ形で世界中に広まったのが1983年発売の任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)です。ファミコンは成熟市場に後発参入したほとんど新規機能の無い製品でしたが、圧倒的低価格とゲームに特化した高い性能で一気に頂点を極めました。
ゲーム機専用ICチップを用意したのがアイデアで、ベースCPUに画像・音声表示に強いモス・テクノロジー社のMOS6502を採用したのも強みでした。当初任天堂側はZ80を希望したようですが、開発担当のリコーが自社でライセンスを取得していた6502を使うことを推奨し、任天堂側でも画像表示用プロセッサとの相性が良いとの理由で6502を採用することになりました。リコーはこれにサウンド用DAC(デジアナ変換)・DMA(メモリー直通)転送機能を追加し、結果として64色中52色表示、6bitデルタPCM音源など当時のパソコンをはるかにしのぐ画像・音声能力を持ったゲームプレイ用マシンが出来上がりました。ファミコンの最終的な出荷台数は全世界累計で6291万台を記録しました。
CPU RP2A03(MOS6502カスタム)/1.79MHz RAM/2KB VRAM/2KB 定価14,800円
コモドールとアミーガ
アタリ社でAtari 2600を開発していたメンバーが、会社にかくれてこっそり開発したのがAmiga 1000(写真)です。販売にあたってアタリ社上層部に相談したものの、アタリは当時新型16bitコンピュータAtari 520STの販売に取り掛かっていたことから却下。やむをえず外部に持ち出すと、これに飛びついたのがPET-2001で元祖PC御三家の一つだったコモドール社でした。コモドールは創業者ジャック・トラミエルやその一族と重役たちとで社内紛争(本が一冊できるほど)が続き、16bitパソコンの開発に支障をきたしていたのです。
1985年に発売されたAmiga 1000は画期的なAVパソコンとしてアメリカよりもヨーロッパで売れました。日本では当初日本語が使えないことから売れませんでしたが、画像処理に優れていたためデザイナーやゲームクリエイターに熱狂的に支持されました。そして「ウゴウゴルーガ」「元気が出るテレビ」などのテレビ番組や「Dの食卓」などのゲームにAmigaで作ったCGが使われるようになると、一般にもその名前が広がりました。
Amigaはグラフィック用にAgnus、Denise、Alice、Lisa、音声用にPaulaという多数のカスタムチップを内蔵し、24bitカラー256色〜262,144色を同時発色可能、PCM音源同時発音数4音可能という圧倒的なAV性能を持ち、UNIXを模した独自開発のAmigaOSはフロッピーディスクのみでも完璧なマルチタスクで動作、さらに拡張スロットにビデオボードVideo Toasterを刺せばLightWave3Dを使って三次元CGを作成可能という、ライバルのMacintoshがまだモノクロ表示だったことを考えると、当時としては信じられないくらいの能力をもっていました。しかしMacintoshがソフト的に画像処理を行う設計だったことに比べると、カスタムチップに頼ったAmigaは互換性を維持しつつ性能を上げることが難しく、それが足かせになって徐々に表舞台から消えていきました。
コモドールが1994年に破産するとAmigaの資産はドイツAmiga社からGatewayへと引き継がれ、現在はブラジルのUniverso AMIGAへ移っているようです。
COMPAQと黒船ショック
1992年3月、IBMを抜いて世界最大のPCメーカーになっていたCOMPAQが日本市場向けのDOS/Vソフトを搭載したAT互換機製品を発表しました。そのCOMPAQ Prolineaは、最安のモデルで12万8千円、標準モデルで19万8千円と、その頃の標準的なパソコン(希望小売価格25〜50万円程度)の半額かそれ以下の価格だったのでPC市場は大きなショックを受けました。これにより、それまでNECのPC-9800シリーズが独占していた日本のパソコン市場の一角が崩れ、NECを含む他メーカーもCOMPAQに追随して価格を下げざるを得なくなりました。この価格破壊を「コンパック・ショック」あるいはDELLやGateway、Packard Bellなど他のAT互換機メーカーを含めて「黒船ショック」と呼びます。これ以後、AT互換機(DOS/V)がシェアを拡大し、ついには日本国内市場がDOS/V一色に染まるきっかけになりました。
COMPAQはその後もデスクトップやノートパソコン製品、サーバ製品を発売し続け、1998年にDECを吸収、2002年には逆にHewlettPackardに吸収されて現在に至ります。
CPU i386SX/25MHz
RAM/2MB
HDD/option
定価12万8000円〜(ProLinea 3/25)
沖電気 if-800
1980年5月に沖電気から発表されたif-800モデル10・モデル20は本格的な「オールインワン」のビジネス向けパソコンとして開発されたものです。モデル10はプリンタを標準装備、モデル20はCRT・フレキシブルディスク装置・キーボード・プリンタを備えていました。1981年に発売されたモデル30はさらに漢字処理機能・グラフィック機能・漢字プリンタ・2MBフレキシブルディスク装置などを装備していました。特にモデル20は我が国のビジネスパソコン市場を拓いた機種として高い評価を受けています。
沖電気は日本最初の通信機器メーカーでNTTとの関係が深く、通信機器・ATM等の情報機器を主体に製造するメーカーです。このif-800を企画したのはアスキーの西和彦氏で、沖電気とアスキーとの開発会議で西氏が「今あるオプションを全部つけましょう」と提案したそうです。オールインワンのデラックスなマシンにしようという話で、沖電気は乗り気でしたがアスキー社内では「ウソ八百もいいかげんにしろ」と言われました。西氏はそのためにこの企画を「USO-800(嘘八百)」プロジェクトと名付けました。そのうち企画が進んでくるとUSO-800から「IF(もしかして)-800」に名称を変更しました。後で沖電気の役員から「あのIFはどういう意味ですか?」と聞かれた時に西氏は「何にでもつなげられるインターフェースの略です」と答えて煙に巻いたそうです。
CPU Z-80A/?MHz RAM/64KB HDD・FDD/option(モデル10)
サンヨー Winkey
珍しいサンヨーのパソコン、Winkeyを紹介します。サンヨーは家電大手の一つで、DOS/V以前のPC/XTやPC/AX規格のパソコンを作り、MSX規格のWAVY、オリジナル16ビットマシンのMBC-55などを作っていました。DOS/V時代になって出したWinkeyも質実剛健のイメージ通りにしっかり作られたノートパソコンでした。IBMと技術提携していて本家よりもさらに堅実な作り、ポート類をなくして薄く軽くし、キーボードはThinkPad配列(ただしWindowsキーとメニューキーはありました)、ポートベースを用意し、外付けFDDとCD-ROMドライブを接続しやすくするなどよく考えられた構成でした。特にキータッチが優秀で、Thinkpad同様の一級品ながら全体的な造り込みの良さはWinkeyが上でした。
サンヨーはデジカメなどを他社ブランド名で作っていて、その技術力には高いものがありましたが、宣伝・販売という面では弱く、自社ブランドではなかなか売れませんでした。Winkeyも作りのよさには定評があったものの、製造側と販売側とのギャップが感じられました。銀パソブームがあると天版だけ銀にしたモデルを出したり、明るく軽快なペンギンのイメージキャラを使っていたのに実機がビジネス向けで地味だったりと、プレゼンテーションに不器用さを感じさせました。
サンヨーはニッケル水素バッテリーの製造のトップシェアを占めていて、各社ブランドで売られてるニッケル水素充電池も実はサンヨー製です。こうした技術力を持ちながら営業力がないためにWinkeyが二代目で生産中止になったのは残念でした。
CPU MMXPentium/150MHz RAM/16MB HDD/2.1GB(MBC-S750)
日立 プリウス
8ビットパソコン御三家の一つ、日立Basic Masterは当時としては画期的なパソコンでした。特に後期のBasic Master level3は日本で始めて6809MPUを搭載し、当時最高水準のカラーグラフィック機能を持ち、英数字とカタカナが精一杯の時代に平仮名を使用出来ました。1982年に出された16000シリーズは珍しい国産IBM-PC互換機で、MS-DOSを採用しFORTRANやCOBOLといった多彩なプログラム言語に対応、個人用の域を超えて科学技術計算などにも使えるという本格的なパソコンでした。しかしNECのキューハチに押され、シャープや富士通にも追い越され、Basic MasterはだんだんマイナーなPCへ変わりました。
その日立がDOS/V時代になって発売したのがFLORAブランドで、CMには長嶋茂雄氏が起用されました。そのFLORAの中でも特徴的だったのが1997年発売の液晶一体型Priusシリーズ(写真)でした。現在でこそ主流になっている液晶一体型ですが当時はまだ珍しく、日立の先進性が際立ちます。特徴としては「PC97 Hardware Design Guide」に準拠し20倍速CD-ROMドライブ内蔵、省スペース・スリムデザイン、FAXモデムと100BASE-TX/10BASE-TのLANインタフェースを標準で搭載などです。 欠点としてはスリムデザインのために拡張性が弱かったこと、筐体を開くのに手間がかかったことなどです。トヨタのハイブリッドカー「プリウス」は日立からパテントを得ているのか気になります。
MMXPentium/200MHz DRAM/32MB HDD/3.2GB
オープン価格
DECとDigital HiNote Ultra
ディジタル・イクイップメント・コーポレーション (Digital Equipment Corporation)通称DEC(デック) は、アメリカ合衆国を代表するコンピュータメーカーでした。1965年に発売したミニコンPDP-8が大ヒットし、その後スーパーミニコン「VAX」シリーズで1970〜80年代に大躍進を遂げ、IBMのBig Blueに対して、Small Blueと呼ばれていました。1995年にDECが出したノートパソコンDigital HiNote Ultra(DHU)は、それまでのノートに比べて薄型軽量な筐体で注目を集め、「スリムノート」という新ジャンルを作り出しました。
DHUは1スピンドルPCでFDDやCD-ROMは内蔵していません。バッテリパックを折り返して出来る空間に付属品のFDDドックが収まる設計でした。CD-ROMドライブやステレオスピーカーはオプションのMobileMediaで提供されていました。ライバルのThinkpadは質実剛健のビジネスマン御用達、それに対してDHUはちょっとお洒落な先端業界御用達というイメージで、どちらも目の玉が飛び出るほど値段が高く、モバイルファンの垂涎の的でした。ポインティングデバイスはトラックボールで、そのデザインはMacのPower bookと共通でした。フロッグ社のデザインのようで、もしかすると本体を作っていたのはSONYかもしれません。
DECは90年代になるとパソコンの高性能化やサン・マイクロシステムズをはじめとするワークステーションの急成長に押されて経営が傾き、1998年にコンパックに買収されました。コンパックがさらにヒューレット・パッカード(HP)に買収されたので、DECの製品群はHPの名前で販売され続けています。
CPU Pentium/75MHz HDD/1GB RAM/16MB 定価528,000円(475CT)
CASSIOPEIA FIVA
カシオは1972年「カシオミニ」で電卓戦争を制し、SHARPと電子手帳事業を競い合い、1994年世界初の液晶デジカメQV-10を発売するなどユニークな存在感を示す企業です。電脳マニアの間には「ちょっと待て、いまにカシオがなにかやる」という標語さえありました。
カシオペアはカシオが販売していたWindowsCE機のブランドですが、1998年にそのブランド名でFIVA(写真)というA5サイズのノートパソコンが発売されました。1996年に出た東芝の初代Librettoと同じ840gでありながら800*600ドットSVGA画面が使えてキーボードも大きめ、モデム内蔵などなかなか使いやすい構成で、華奢に見えて剛性の高いマグネシウム合金ボディも高い評価を受けました。LibrettoやVAIOがだんだん大きくなっていく中で、小さく可愛く、しかも普通にWindowsが使えたこのマシンには一部のマニアが飛びつきました。欠点はキーボードがローマ字入力向きになっていたこと、液晶画面の横に付いているポインティングデバイス「サムパッド」を使うのに慣れが必要だったこと、指や手が熱くなる発熱量の大きさなどでした。またCPUがIntelなどの製品に比べて能力が劣るという評判のサイリックス社MEDIA GXだったこと、本体価格が20万円近かったことなどであまり一般受けはせず、かなりの在庫が残ったようで後に傘下のアキアから大きくディスカウントされて販売されました。FIVAシリーズはタブレットタイプも含めて2002年まで生産されています。
CPU Media GXm/200MHz RAM/32MB HDD/2.1GB 定価19万8000円
痛恨の記憶 マハーポーシャ
マハーポーシャはオウム真理教が販売していたパソコンブランドで、この収益が一連の犯罪の資金源となったことからパソコン史上の一大汚点となっています。
DOS/Vパソコンが浸透してきた時期に、秋葉原で踊りながらチラシを配る集団が出てきて話題になりました。彼らは路上で香炉を焚いて祈祷したりしていたので「怪しい新興宗教だ」と不気味に思う人も多かったのですが、チラシにあるパソコンの価格が比較的安く、マニアの中には「安ければいい」と購入する人もたくさんいたようです。
マハーポーシャは台湾などから輸入した部品を上九一色村にあったサティアンに集め、信者が修行の一環としてろくに食事もとらず昼夜突貫で組み立てていました。人件費がほとんどかからないので他店より安価であるにもかかわらず、営業利益は大きかったようです。オウムには理系の高学歴者が多く、当時のパソコンの内外価格差に目を付けて資金源にしたところはいかにも電脳時代の犯罪集団でした。
完成品のほかにパーツの販売も行っていて、地下鉄サリン事件の起きた1995年以降もいろいろと店名を変えて販売を継続していました。その後、アーレフとなって被害者救済資金獲得名目で開店営業していましたが、2005年に終了し通信販売に移行しています。
参考文献:「情報化はなぜ遅れたか」伊丹敬之・伊丹研究室(NTT出版)ほか
参考サイト:HITACHI WebCafe カシオの歴史 ほか
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