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女性とコンピュータ

part2:女性とコンピュータの歴史

part1は大上段から「女性と科学」を取り上げましたが、いよいよ本来の目的の「女性とコンピュータの歴史」です。意外な知識が満載の「女性の」コンピュータ史をご覧ください。

最初の女性プログラマーたち

世界初のプログラマー/エイダ・ラブレイス

エイダ・ラブレイスコンピュータの歴史と女性の関係を見るとき、常に最初に取り上げられるのは伝説的な「最初のプログラマー」エイダ・ラブレイスです。彼女のフルネームは ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・バイロン・キング (Augusta Ada Byron King, Countess of Lovelace )、英国のロマン派詩人ジョージ・バイロンと短い結婚生活を送った妻アナベラ・ミルバンクとの間にできた娘で、成人してラブレース伯爵夫人になりました。
数学と科学の英才教育を受け、1833年にとある席で、ディケンズやファラデーらとともにチャールズ・バベッジを紹介されて彼の機械式計算機の研究に大いに興味を持ちました。バベッジの研究とは18世紀に発案されたDifference Engine(階差機関)とそれを発展させたAnalytical Engine(解析機関)で、ジャガード織機を応用した機械式コンピュータと呼べるものでした。彼は政府の援助を受けてそれを設計・製作していました。エイダはバベッジの助手としてこのプロジェクトに参加、現代のアセンブリ言語に近い言語で記載し、パンチカードで供給するプログラムを作成したと言われています。またこの機械についての論文も書いています。
残念ながらこの解析機関は完成せず(後にバベッジの設計通りに試作されたものはきちんと動いたそうです)、エイダも1852年子宮ガンのため36歳で死去しました。1980年、アメリカ国防総省は新しいプログラミング言語に彼女を記念してAdaという名前をつけたと発表しました。

20世紀最初の女性プログラマー/エディス・クラーク

エディス・クラーク

エディス・クラーク(Edith Clark)は1883年メリーランド州の小さな農業コミュニティーで生まれました。先進的私立女子大学ヴァッサー・カレッジで数学と天文学を専攻。しかし優等生として受賞したり、優等生が集まる「ギリシャ文字クラブ」に出入りする間に次第に志向が変化しました。
卒業後はウェストバージニア・マーシャル大学で教鞭をとるなどしてからウィスコンシン大学に土木学生として再入学、在学中にアメリカ・テレフォン・アンド・テレグラム(AT&T)社の研究技師ジョージ・キャンベル博士にスカウトされる形で計算機指導者としてAT&T社に入りました。
1918年になると今度はマサチューセッツ工科大(MIT)に再入学、修士号を獲得し、翌1919年にはジェネラル・エレクトリック(GE)社に入社して電気式計算機のオペレーションを担当、1921年に電力伝送路問題を解決する「グラフ式電卓」の特許を取得しました。
さらに1921年にはトルコ共和国に米国が設立したコンスタンチノープル女性大学へ派遣され、物理学教授として教鞭をとりました。しかし翌年にGE社に復帰、1945年の最初の引退まで働きました。
1947年にエディスはテキサス大学の教授職を獲得、そこでプログラミングを教える最初の女性になりました。彼女は1956年に二度目の引退をするまで教鞭をとりました。1959年死去。ページのトップへ

エニアックを動かした女性たち

ENIACと女性プログラマその1

エイダ・ラブレイスの活躍から一世紀の後、1946年に陸軍弾道研究所(BRL)内に世界初の電子式汎用コンピュータENIAC(Electronic Numerical Integrator And Computer=電子式数値積分計算機)が完成しました。ENIACは大きな建物ほどの大きさがあり、これを動かすためには回線の繋ぎ換え、真空管の取替えなど膨大な人手がかかりました。しかし当時は第二次世界大戦が終結したばかり、男性の技術者はほとんど出征しているか他の軍事作業のために徴用されていました。BRLの教育機関ムーア・スクールには80人近い講師と生徒が在籍していましたがそれでも足りません。ENIACを設計・製作したペンシルベニア大学の プレスパー・エッカートとジョン・モークリーを始めとする研究者たちは、自分の出身大学や近隣の学校などあちこちから人材を募ります。そうして集まったのが200人に及ぶ女性たちでした。上記の写真はENIACを実際に操作している女性たちです。

ENIACと女性プログラマその2 これらの写真は現在、アメリカ国防総省でフリーな素材として公開されています。ジャーナリストのキャシー・クレイマン氏は「ここに写っている女性はどういう人たちなのだろう?」と疑問に思いました。同僚たちに尋ねても「モデルさんだろう」というような答えしか返って来ません。そこで自分で国防総省におもむき、調査して驚くべき結果を得ました。世界初のコンピュータは女性たちが動かしていたのです。左の写真もENIACを管理・操作している女性プログラマーたちです。
クレイマン氏はその後も調査を続け、200人を越える女性集団を率いた6人のリーダーがいたことをつきとめました。そしてそのうちの4人が存命だということ知り、この人たちを主人公にした物語を企画して映画化することを考えました。その企画のホームページは下記にあり、クレイマン氏と4人の女性プログラマーの映像もあります。
http://eniacprogrammers.org/


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コンピュータの基盤を持つ女性たち

実はすでにこの当時の研究はかなり進んでおり、上の歴代コンピュータの基盤とともに写っている女性たちの名前もわかっています。
左から、パッツィ・シマーズとENIACボード
ゲイル・テーラー夫人とEDVACボード
ミリー・べック夫人とORDVACボード
ノーマ・ステック夫人とBRLESC-Iボード です。
あちこちで当時の記録を発掘している人々が活動しており、インターネット上にはその内容が公開されています。この章は主にその中の、2001年コンピューティング戦略国際問題研究所マーサ・ビッカーズ・スチール氏の研究論文『Women in Computing: Experiences and Contributions (女性のコンピューティング:経験と貢献)』(PDF)から引用しています。

ENIAC女性プログラマー集団を率いたリーダーとは、ケイ・マクナルティフランシス・スペンスジーン・ジェニングスベティ・スナイダールース・リクターマンマーリン・メルツァー の6人です。しかし、実はこの人たちを選抜した女性たちがいます。リーダーのリーダーだったのはムーア・スクール講師ハーマン・ゴールドスタインの妻、アデーレ・ゴールドスタインです。ほかにも詳細は不明ながらメアリー・モークリー(モークリーの先妻か)、ミルドレッド・クレイマーという名前があり、この3人がリーダーを選出したようです。残念ながらこの人たちの肖像は見つかりませんでした。BRLムーア・スクールは米陸軍女性補助部隊として集められた多数の女性数学者が勤務していたので、ここから指導的な立場の人材が登用されるのは当然でした。こうした指導者の名前としては、さらに

リラ・トッド・バトラー(Lila Todd Butler)、
エスター・ガーステン(Ester Gersten)、
ウィニフレッド・スミス・ジョナス(Winifred Smith Jonas)、
マリー・バイアスタイン・マローン(Marie Bierstein Malone)、
グロリア・ゴードン・ボロツキー(Gloria Gordon Bolotsky)
ヘレン・グリーンマン・マローン(Helen Greenman Malone)、
ホーム・マカリスター・レイツワイスナー(Home McAllister Reitwiesner) 

といった名前が記録されています。
彼女たちはまったく先例の無い中で、一から電子式コンピュータのプログラムを開発、実際にそれを応用して様々な計算をこなしました。そして次の世代に開発コードやツールを伝え、コンピュータ社会の基礎を築いたのです。研究が進んでこれらの女性たちの詳細が発掘されれば、このサイトの内容がどんどんふくらむことも考えられます。ページのトップへ

エニアックチームのリーダーたち

ケイ・マクナルティ

ケイ・マクナルティ

フルネームはキャスリーン(ケイ)・マクナルティ・モークリー・アントネッリ(Kathleen McNulty Mauchly Antonelli)1921年独立戦争真っ最中のアイルランド・ドネゴール州生まれ。父はアイルランド共和国軍の訓練将校。一家は1924年ペンシルベニアに移住、父ジェームズは石積みビジネスで成功しました。ケイはチェスナットヒル・カレッジで数学の学位を取得、就職活動を始めた時、新聞で「祖国のために働く数学者求む」の広告を見て陸軍弾道研究所研究員に応募し、採用されました。最初はMITで作られた機械式計算機を使った計算業務やその指導をしていましたが、ENIACの完成とともにオペレーションチームのリーダーに抜擢されました。ケイはフランシス・スペンスとともに弾道学方程式を計算する女性のチームを指揮しました。さらに戦後は世界の主要な数学者のための方程式計算をプログラムし続けました。
その後エッカート&モークリー社に勤務する一方、1946年9月に妻が溺死し、二人の子どもを抱えるシングルファーザーになったモークリーの面倒を見ているうちに彼の後妻になることを決心、14歳年下であることやカトリック教徒の両親が祝福しないなどの障害を越えてモークリー夫人になりました。1980年にモークリーが死亡すると彼の業績を著作に著したり、各地で講演活動をしました。1985年にカメラマン、セベロ・アントネッリと再婚、1997年には他のENIACプログラマーグループと一緒に「女性科学技術の国際殿堂」入りしました。


フランシス・スペンス

フランシス・スペンス

フルネームはフランシス・ビラ・スペンス(Frances Bilas Spence)1922年フィラデルフィア生まれ。テンプル大学に進むものの、その後奨学金を授与されたチェスナットヒル・カレッジに転校。そこでケイ・マクナリティと出会います。フランシスは数学と物理学を専攻、1942年に卒業するとケイと一緒に陸軍弾道研究所ムーア・スクールに教師として就職しました。ENIACが完成するとそのオペレーションチームのリーダーに抜擢され、ケイ・マクナリティとともに弾道学方程式を計算する女性のチームを指揮しました。
1947年、陸軍電気技師ホーマー・スペンスと結婚。ENIAC開発の仕事はまだ残っていましたが、ホーマーが大きなプロジェクトの責任者になったので彼女は家族のために職を辞しました。1953からはエッカート&モークリー社に勤務、ケイとともにコンピュータ・プログラムの基礎を築くプログラム開発に携わりました。
1997年には他のENIACプログラマーグループと一緒に「女性科学技術の国際殿堂」入りしました。 2001年12月メリーランド州ロックヴィルで死去。ページのトップへ


ジーン・ジェニングス

ジーン・ジェニングス

フルネームはエリザベス(ベティ)・ジーン・ジェニングス・バルティク(Elizabeth Jean Jennings Bartik)本来は彼女の愛称も「ベティ」ですが、チームにベティ・スナイダーがいたためセカンドネームの「ジーン」で呼ばれたようです。
1924年ミズーリ州カウンティー生まれ。北西ミズーリ州教員養成大学で数学を専攻、1945年弾道計算の仕事をするためにペンシルバニア州立大学に雇用されました。1946年、ENIACが始動するとベティ・ホルバートンとともに第3グループのリーダーに就任、ENIACのすべてのプログラム・シーケンスの実行を指令するマスター・プログラムを作成、チームの全グループをリードしました。この開発はENIACを進化させ、次世代のノースロップ社BINAC(バイナック)の開発につながりました。ジーンはBINACやUNIVACのプログラムも開発、その後も疲れを知らずに多くのマシン開発に携わり、コンピュータの普及に貢献しました。
後年には出版界に進出、本や雑誌の技術指導者として多くの科学技術書を出版しました。
出身の北西ミズーリ州教員養成大学だけでなく、ペンシルバニア大学や北西ミズーリ州立大学からも名誉博士号を贈られ、2008年にはロバート・メトカフェ(LANの開発者)、リナス・トーバルズ(LINUXの開発者)とともに「コンピューター歴史ミュージアムFellow Award」を受勲しました。
北西ミズーリ州立大学には彼女の名前を冠した博物館があります。


ベティ・ホルバートン

ジーン・ジェニングス

フルネームはフランシス・エリザベス(ベティ)・スナイダー・ホルバートン(Frances Elizabeth Snyder Holberton)1917年フィラデルフィア生まれ。ペンシルバニア州立大学で数学の学位を取得、陸軍軌道研究所ムーア・スクールに就職しました。1946年、ENIACが始動するとジーン・ジェニングスとともに第3グループのリーダーに就任、弾道軌道学のための計算を電子的に実行するプログラムを開発しました。
その後、ジーン・ジェニングスとともにBINACのプログラムを作成、全てのプログラムの源と言われる「C-10コマンド」を開発しました。また単独でUNIVACのキーボードとテンキーのコンソール・コントロールを設計、さらに1950年に米国国勢調査のための統計分析パッケージを作成、1952年にはグレース・ホッパーとともにCOBOLとFortranのための初期基準言語の開発に参加しました。
後年は永く国際的なコンピューターの標準化委員会代表を務めました。1997年には他のENIACプログラマーグループと一緒に「女性科学技術の国際殿堂」入りしました。ページのトップへ


ルース・リクターマン

ルース・リクターマン

フルネームはルース・リクターマン・タイテルバーム(Ruth Lichterman Teitelbaum)1924年生まれ。ニューヨーク州立大学ハンター校で科学士号を取得。卒業後に陸軍軌道研究所ムーア・スクールに就職しました。1946年にマーリン・メルツァーとともにENIACプログラマ第1グループのリーダーに抜擢されました。ルースとマーリンはアナログ技術を用いて弾道軌道方程式を計算し、他のENIAC開発グループにその機能を教え、弾道プログラム作成に大いに貢献しました。
他の仲間が結婚などで退職する中、ルースはENIACプログラマの次の世代を訓練するためにアバディーン試験場へ移動、弾道学研究所とENIACとともに1947年からさらに二年間働きました。1986年テキサス州ダラスで死亡。
1997年には他のENIACプログラマーグループと一緒に「女性科学技術の国際殿堂」入りしました。


マーリン・メルツァー

マーリン・メルツァー

フルネームはマーリン・ウェスコフ・メルツァー(Marlyn Wescoff Meltzer) フィラデルフィア生まれ。1942年にテンプル大学を卒業。
機械式計算機に熟達していたので、天候計算を実行するために陸軍軌道研究所ムーア・スクールに雇われました。1943年からは弾道計算も施行、1946年にはENIACプログラマ第1グループのリーダーに抜擢されました。ENIACチームの女性たちにコンピューターを操作するという概念がまだ確立していない中、彼女は最も信頼のおけるメンバーとして認識されていました。マーリンとルース・リクターマンはENIAC開発プログラマーの特別チームとしてアナログ技術を用いて弾道軌道方程式を計算し、他のENIAC開発グループに機能を教え、弾道プログラム作成に大いに貢献しました。
1947年結婚のため、ENIACがアバディーン試験場へ再配置される前にチームを辞職しました。
1997年には他のENIACプログラマーグループと一緒に「女性科学技術の国際殿堂」入りしました。ページのトップへ

そのほかの女性プログラマー・オペレーター・研究者たち

ABCコンピュータを擁護/アリス・バークス

アリス・バークス

アリス・ロウ・バークス(Alice Rowe Burks)は1920年生まれ。競争率の高い数学奨学金を得てオバーリン大学に進学、1944年にペンシルバニア大学へ移動して学士号を取得しました。卒業後は大学に縁の深い陸軍弾道研究所ムーア・スクールで弾道計算と指導者の仕事に就きました。
ENIACが完成すると他の女性数学者達はオペレーションに駆り出されましたが、アリスはムーア・スクールの講師でENIAC開発チームの一人だったアーサー・バークスと結婚して退職してしまったので、直接ENIACには触っていません。その後アーサーがミシガン大学電子計算機科学部に移動すると、夫とともにミシガンへ移住しました。その後1957年に教育心理学の学士号を得て学校勤務へ復帰しました。また夫とともに電子計算機の歴史に関する子供の本を著して出版しました。
アリスが最も注目されたのはENIAC特許を無効にした連邦裁判所判決で、彼女とアーサーがアタナソフ博士のABCコンピュータを強く擁護したことが裁判のハイライトとなり、モークリーの敗訴に大きく影響しました。
アリスは現在ミシガン州アナーバーに住んでいて、2008年に死亡した夫の回想録を書いているそうです。


COBOLの母/グレース・ホッパー

グレース・ホッパー

プログラミング言語COBOLを開発し、現代女性で唯一コンピュータ史に登場する人物。フルネームはグレース・ブリュースター・マレー・ホッパー提督(Admiral Grace Brewster Murray Hopper)。1906年ニューヨーク生まれ。ヴァッサー女子大学を卒業後、イェール大学大学院に進み、1930年に数学と物理学の修士号を取得。ヴィンセント・ホッパーと結婚。1934年には女性初の数学の博士号を取得。ヴァッサー女子大学で教鞭をとった後、海軍予備役に入り、1944年には中尉に昇進。同年よりハーヴァード大学に勤務し、ハワード・エイケンのもとでコンピュータ「マークI」用のプログラム開発に携わりました。
戦後も「マークII」、「マークIII」のプログラム開発に参加しましたが、ある時マークIIのリレー(機械的な接続部分)に蛾が挟まって機械が作動しなくなりました。グレースはその蛾を作業日誌に貼り付けて「最初のバグ」と書き付けました。このエピソードが広まってプログラムの不具合を「バグ」と表現するようになりました。
1949年にはUNIVACの開発に参加、1957年にはUNIVACを引き継いだレミントン・ランド社で世界初のコンパイラ言語「FLOW-MATIC」を開発、これが高級言語「COBOL」の原型となりました。
軍人としては1973年に大佐、1983年には准将相当少将に昇進し、1986年に少将として退役しました。同時に国防殊勲章を受章、退役後は1992年に85歳で亡くなるまでDEC社の顧問を務めました。アメリカ海軍のミサイル駆逐艦「USS Hopper DDG-70」はグレースを記念して命名されました。ページのトップへ


コンピュータ学会を主催/マギー・フォックス

マギー・フォックス

マーガレット・R・フォックス(Margaret R. Fox)は1916年生まれ、ウィスコンシン州立大学で数学と物理学を研究し、学位を取得しました。。
1943年、海軍予備役に入り海軍調査局でエレクトロニクス・エンジニアとして働きました。
1951年に商務省標準局(NBS)コンピューター研究所に入所、エッカート&モークリー社と契約してUNIVACによる国勢調査プランを作成、そのプログラムを効率化するために調査情報広報・顧問業務局(RICASIP)で昼夜を分かたず働きました。その成果は後のコンピュータ開発に大いに役立っています。
1966年にはNBSコンピューター情報研究所のチーフに就任、米国コンピュータ学会を開催してコンピュータの普及に貢献しました。また「情報処理社会のための全国連合(AFIPS)」を結成してその一等書記官に就任し、コンピュータの利点や効用を分かりやすく広報しました。彼女の業績はミネソタ大学・チャールズ・バベッジ研究所のアーカイブに収録されています。


チューリング賞受賞者/フランシス・アレン

フランシス・アレン

フランシス・エリザベス(フラン)・アレン(Frances Elizabeth "Fran" Allen)はコンピュータ界のノーベル賞と言われる「チューリング賞」を受賞した最初の女性です。
1932年ニューヨーク州北部の農家で生まれ、ニューヨーク州立師範学校で数学の学位を取得。さらにミシガン大学で数学の修士号を取得。ニューヨーク州で教鞭を取った後、1957年にIBMに入社。高級プログラミング言語「FORTRAN」の教育と指導を行いました。
1980年代初頭に、当時課題になっていた並列マシン向けのコンパイル(言語のマシン語翻訳)問題を解決するために、パラレル・トランスレーション (P-TRAN)グループを立ち上げました。P-TRANはフランシスの指導の下、アルゴルズムやテクノロジーを開発してプログラム最適化理論の基礎を築きました。現在使われている商用コンパイラは全てこの理論に基づいて作られています。この功績でフランシスは女性で初めて「IBM Fellow」になりました。
2006年には女性として初めてチューリング賞を受賞、2007年には彼女の栄誉を記念してIBM博士号フェローシップ賞が設けられました。ページのトップへ


二人目のチューリング賞受賞者/バーバラ・リスコフ

バーバラ・リスコフ

バーバラ・リスコフ(Barbara H. Liskov)1939年生まれ。カリフォルニア大学バークレー校で数学の学位を取得。1961年にはスタンフォード大学電子計算機科学部で博士号を獲得した最初の女性になりました。
60年代には対話型のタイムシェアリング・システム「ビーナス・オペレーティング・システム」を開発、高級言語Argus、オブジェクト指向のデータベースThorの開発などを進めました。
また言語作成の法則として「リスコフ代用原理」を発見、MITでは一般的なエラーでシステムが停止するのを回避する「ビザンチン耐故障方式」確立に貢献しました。100以上の専門的論文と3冊の著作があります。
MIT電気工学部および電子計算機科学部教授。国立アカデミー、アメリカ芸術科学アカデミー、および米国コンピュータ学会会員。
2004年、フォン・ノイマン・メダルを獲得。2008年、女性としては二人目のチューリング賞受賞。


コンピューター数学者/ローザ・ペーテル

ローザ・ペーテルローザ・ペーテル(Rosa Peter)は1905年生まれ。ブダペストのエトヴェシュ大学で数学を学び、教師・研究者としてのキャリアを開始。最初の研究は「整数論」でしたが、その結論はすでにレオナード・ディクソンによって証明されていた事を知って落胆しました。しばらくの間、ローザは数学を離れて詩を書いていました。
1930年、同僚教授のラズロ・カルマルがローザに数学に帰るように励まし、数学者クルト・ゲーデルの仕事を検証するよう提案しました。それを受けてローザはゲーデル研究に没頭し、一連の論文で「帰納的関数理論」の創立者になりました。
ローザは1951年に「帰納的関数(Recursive Functions)論」を書きました。それは以後トピック上の第一の本とされ、標準の参照論文になりました。これ以後は「帰納的関数」に関する理論への主要な寄稿家として紹介されるようになりました。 その間、ローザは1945年から1975年の引退までブダペスト教員養成大学、およびエトヴェシュ大学の数学教授でした。
1950年中頃から彼女はコンピューターに「帰納的関数理論」を適用する作業に取り組みました。この中で彼女はゲーデルの「不完全性定理」を証明したとされています。これは間接的に「一般相対性理論におけるゲーデル解」の証明を通じてアインシュタインの相対性理論を証明したものだそうです。(解説不可能)
1976年に出版された彼女の最後の本は「コンピューター理論における帰納的関数(Recursive Functions in Computer Theory)」というものでした。1977年死去。ページのトップへ


アポロ計画に参画/イーヴリン・ボイド・グランヴィル

イーヴリン・ボイド・グランヴィル

イーヴリン・ボイド・グランヴィル(Evelyn Boyd Granville)は1924年ワシントンD.C.で生まれました。ダンバー・ハイスクールを卒業生総代として卒業、叔母の援助と黒人女子学生社交クラブからの奨学金を得てスミス・カレッジに入学、数学と物理学を専攻しますが、マージョリー・ウィリアムズの教室に入ってからは天文学に魅了されました。
1945年に最優秀学生に選出されると、財政援助を受けてイェール大学で博士号論文に取り組み、その結果、1949年黒人女性としては二人目の数学博士号を取得しました。(一番目は1943年カトリック大学のユーフェミア・ヘインズ)
その後、イーヴリンはニューヨークで常勤の教職を探しますが、女性であることと肌の色のためにことごとく拒絶され、アパートに入ることすらも拒否されて仕方なくテネシー州ナッシュビルに赴き、黒人大学フィスク・ユニバーシティの準教授職に就きました。ここでヴィヴィアン・マローン・メイズエッタ・チューバー・ファルコーネ(いずれも後に数学博士号を取得)などの優秀な生徒を指導しました。
二年後、イーヴリンはダイアモンド砲弾起爆研究所に移動、軌道計算の研究を行い、1956年から1960年までIBMでコンピューターでの軌道計算法を研究しました。その後NASAに招聘され、有人宇宙飛行計画に参加。マーキュリー計画で軌道解析法を開発し、続くアポロ計画にも採用されました。
この間、1960年にガマリエル・M・コリンズ牧師と結婚。ロサンジェルスに移住しましたが1967年に離婚。カリフォルニア州立大学などで教鞭を取り、1970年には、エドワード・V・グランヴィルと再婚しました。
1989年にはスミス・カレッジから名誉博士号を贈られ、1990年にはテキサス州立大学で客員教授として教えました。1999年には国立科学アカデミーに受け入れられたアフロアメリカン女性三人のうちの一人になり、リンカーン大学からも名誉学位を贈られました。


スモールトークを開発/アデーレ・ゴールドバーグ

イーヴリン・ボイド・グランヴィル

アデーレ・ゴールドバーグ(Adele Goldberg)はスタンフォード大学出身。ゼロックス・パロアルト研究所 (PARC) で天才的なプログラマーとしてその才能を高く評価されていた人物。最初のワークステーション「アルト」のためのオブジェクト指向OSで後のパソコンに大きな影響を与えた「Smalltalk」開発の中心メンバーでした。開発メンバーがアップルやマイクロソフトに移動する中、一人PARCに残ってParcPlace Systemsの社長に就任、その後PARCのチーフ戦略家および取締役会長を勤めました。


以下、肖像や詳細がまだわからない女性たちです

アレクサンドラ・イルマ・フォーサイス(Alexandra Illmer Forsythe)
1960年代から1970年代にかけて、コンピュータの教科書シリーズを執筆。科学学術出版のワイリー&サンズ社からたくさんの著作が出版されました。

エルナ・シュナイダー(Erna Schneider Hoover)
イェール大学で哲学と数学を研究。AT&Tベル研究所に入社し、コンピュータのトラフィック・スイッチングシステムを開発、いくつもの特許を得ました。1971年からはベル研究所の技術的スーパーバイザーに就任しました。

ジョアン・マーガレット・ウィンターズ(Joan Margaret Winters)
IBMでソフトウェアやツール評価ソフトウェアを研究、1987年にはプロジェクトのサブマネージャーになりました。1980年にはスタンフォード線形加速器センターでコンピューティング・プログラマに就任。その後、アメリカ通信規格協会(ASCII/EPCDIC)副議長に就任しました。ページのトップへ


メアリ・アレン・ウィルクス(Mary Allen Wilkes)
マサチューセッツ工科大リンカーン研究所で、最初のミニコンピュータ「LINC」のためにオペレーティング・システム(LAP)を開発。研究のために自宅にもLINCを設置し、「自宅にコンピュータを持った世界初の研究者」になりました。

カレン・スパルク・ジョーンズ(Karen Sparck Jones)
情報検索と自然言語処理のパイオニア。

キャロル・ショー(Carol Shaw)
アタリ社で活躍したゲームデザイナー・プログラマー。作るだけでなく、実践者として著名なゲーマーでした。


アレクス・クロトスキ(Aleks Krotoski)
英国ガーディアン紙のテクノロジー・コラムを執筆。サイバースペースの社会ネットワークを研究、サリー大学で社会心理学の講座を開いています。2006年には教育とスキル、エンターテインメントおよびレジャー・ソフトウェア出版協会(ELSPA)の共同作業に寄与しました

ヴィオラ・ウッドワード(Viola Woodward)
数学者として訓練を受け、1948年にBRLに来ました。ENIAC、EDVAC、ORDVAC、およびBRLESC 開発に取り組み、スーパーバイザー・プログラマーとして務めた後、1978年に30年のキャリアを終えて引退。コンピュータ関連のコンサルタント業務を続けました。

ロバータ・ウィリアムズ(Roberta Williams)
パソコン用のグラフィカルなアドベンチャー・ゲームを開発、特に画期的なゲーム、「王様のクエスト」の開発者として著名。

ラディア・パールマン(Radia Perlman)
DEC社に勤務。LAN構造の中で、通信がループするのを防止するスパニングツリー・プロトコルを開発。(LANを点と線によって構成されるグラフとみなし、LAN接続の一部をあえて利用禁止とすることでツリー構造をつくります。ツリー構造はループ=閉路を持たないことからLAN内部でのループが回避されます)

シャフィ・ゴールドワッサー(Shafi Goldwasser)
論理的コンピューター科学者。複雑さ理論、暗号化理論、整数論についての研究と、「ゼロ知識プロトコル」(通信のほぼ完璧な暗号化法則)の発明に対し二度もゲーデル賞を受賞。

スーザン・カレ(Susan Kare)
アップル社に勤務。マッキントッシュのインターフェイス周辺、アイコンなど多数を開発。1980年代にはスティーブ・ジョブズに招かれてNeXT社のクリエイティブ・マネージャーを勤めました。ページのトップへ

「闘う」女性プログラマーたち

ENIACからはるかに飛んで現代の物語。グレッグ・パスカル・ザカリー氏の著作で、「闘うプログラマー」という本があります。これはMS-DOSで覇権を握ったMicrosoftが、次世代のOSを作るために「伝説のプログラマー」を招聘して画期的な開発作業に取り組む現場を取材したドキュメントです。毀誉褒貶(きよほうへん)様々なMicrosoftですが、世界最大のプログラマー集団であることは間違いないところで、その中には女性がたくさんいます。男性社会であるソフトウェア開発現場で、女性プログラマーたちがいかに奮闘しているか、その実態がこの本の中にはかなり大きく出てきます。その次世代OS:Windows NTのコンソール(コマンドプロンプト)や、ユーザプロファイル周りが女性プログラマーたちによって作られたこともわかります。
彼女たちは「ホッパーズ」という会を作り、職場の環境改善に取り組んだそうです。

ここに登場する女性たちは・・・

テレーズ・ストウェル:ブラウン大学コンピュータ学科出身。明るいファッショナブルな女性。 コンソール(文字出力)担当。グレース・ホッパーを尊敬しており、 女性プログラマー集団「ホッパーズ」と同名の掲示板を創設。社内パソコンのヌード壁紙を禁止させる。

リー・スミス: ダンサー出身。女性ではただ一人のユーザ・プロファイル周り作成チームのリーダー。自席にボディビルダーのピンナップを貼っていたが自主的に撤去。 「ホッパーズ」メンバー。

ジョアン・キャロン:コンピュータ学科卒業 WindowsからNTへのprogram managerの移植担当。空手道場に通っている。

ジェーン・ハウエル:NTチームで唯一の女性ハードウェア・エンジニア。「ホッパーズ」メンバー。

エレン・アイコック:古いMicrosoft社員。「ホッパーズ」メンバー。

「インターネットを創った人たち」(脇英世・著)という本にはレベッカ・ノーランダーというMicrosoftのプログラマーが出てきます。彼女も社内結婚ですが、男性プログラマーたちは会社にこもったきりで仕事を続ける場合が多く、自宅に帰れずに家庭崩壊に至るケースもまれではないそうです。社員の妻たちは「Microsoft Widows(マイクロソフト寡婦衆)」を作ろうと考えたこともあるとか。女性プログラマーたちはこうした過酷な環境を少しでも改善しようと奮闘しています。ページのトップへ

参考書籍・参考サイト

闘うプログラマー[新装版] ビル・ゲイツの野望を担った男達
グレッグ・パスカル・ザカリー:G.Pascal Zachary (著)、 山岡 洋一 (訳)
出版社: 日経BP社; 新装版
ISBN-10: 4822247570
発売日: 2009/7/15

Historic Computer Images
http://ftp.arl.mil/ftp/historic-computers/
Famous Women in Computer Science
http://www.cs.bris.ac.uk/admissions/what_is_cs/FamousWomen.html
Pioneering Women in Computing Technology
http://women.cs.cmu.edu/ada/Resources/Women/
Past Notable Women of Computing
http://cs-www.cs.yale.edu/homes/tap/past-women-cs.html
Women in computing-Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Women_in_computing

★本文は英文サイトからの翻訳を中心にしているため、誤訳や取り違えが考えられます。(ENIACチームにはベティが二人、フランシスが二人いてセカンドネームも一定ではなく、誰に関する記述か混乱することが多かった、というのは一例です) 引用される方は必ず原文をご参照ください。
★日本人女性プログラマーの記述がありませんが、現在のところジャストシステム社の浮川初子元代表取締役専務(現MetaMoJi社)ほか少数しか確認できていません。今後の課題です。情報をお持ちの方はご提供ください。


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